加藤清正~肥後の虎・勇猛果敢で知られる熊本の戦国大名


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加藤清正は、1562年6月24日、尾張国愛知郡中村村(現在の名古屋市中村区)で生まれた。幼名は夜叉丸、のち虎之介。
父は刀鍛冶の加藤清忠、母は鍛冶屋清兵衛の娘・伊都。

加藤清正がまだ幼い1564年に、父・加藤清忠が亡くなった為、母・伊都と共に義妹の嫁先である津島に移った。
教育熱心な母・伊都は、幼い加藤清正を妙延寺へ通わせて勉学を学ばせたと言う。

羽柴秀吉の生母である大政所と、母・伊都は従姉妹(又は遠縁の親戚)であったことから、加藤清正は1573年、近江・長浜城主となったばかりの羽柴秀吉の小姓として、福島市松(のちの福島正則)らととも仕えた。

加藤清正は、羽柴秀吉の数少ない親戚として、子供のいなかった羽柴秀吉の正室・おねからも将来を期待され可愛がられたと言う。
幼い頃からたくましい体つきと体力と知恵を持ち、武芸にも秀でており、この頃、人質になっていた黒田長政とも交流を深めた。
1576年には170石を与えられているので、加藤虎之助清正と名乗り元服したものと推測できる。

近江の守護大名佐々木氏の一族で摂津・三田城主・山崎片家の娘を正室とし、嫡男・虎熊を設けていることが豊臣秀吉の朱印状から近年明らかになった。

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1581年の鳥取城攻めに従い、蜂須賀小六と功績をあげ100石加増になっている。
1582年4月14日、備中・冠山城攻めの際、加藤清正は城に一番乗りを果たし、竹井将監という豪の者を討ち取った。
1582年、明智光秀による本能寺の変が起こると、加藤清正は羽柴秀吉・黒田官兵衛らと共に中国大返しを行い、山崎の戦いに参戦し敵将・近藤半助を討ち取った。
1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは太刀や槍を片手に柴田勢に突撃し、敵将・山路正国、鉄砲頭・戸波隼人を討ち取り、羽柴秀吉より「賤ヶ岳の七本槍」の1人として称され、3000石の所領を与えられた。賤ヶ岳の七本槍は、その他に福島正則、加藤嘉明脇坂安治平野長泰、糟屋武則、片桐且元

この頃、幼い時からの仲間であった飯田覚兵衛(いいだかくべえ)や森本義太夫(もりもとぎだゆう)が、加藤清正の家臣に加わっている。
幼いころ剣の試合をして、勝ったものが主君に、負けたものが家来になるという約束をし、加藤清正が勝ったと言う経緯があり、その約束通り2人が家来になったのだと言う。
築城に優れた飯田覚兵衛、武術に優れた森本義太夫は、のち加藤家の三傑と呼ばれ、加藤清正を支える忠臣になっている。

1584年4月、長久手の戦いで、撤退の殿(しんがり)を務めた。

1585年の四国征伐にも従軍し、7月に羽柴秀吉が関白に就任すると、加藤清正は従五位下・主計頭に叙任。11月には父の菩提のため、難波に本妙寺を建立。

1586年からの九州征伐にも従い、肥後国主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国195000石を与えられ、加藤清正(28歳)は熊本城(隈本城)を居城とし5500石余りの侍大将から大出世した。

このとき、肥後半国と四国の讃岐国とどちらかを選べと言われ、来るべき「唐入り」の先鋒となるために肥後を選んだと言われる。
羽柴秀吉は、加藤清正が肥後に赴くにあたり、前年に改易した讃岐の尾藤知定(びとうともさだ)の武具・調度一切を加藤清正に与えている。

肥後では政治手腕も大いに発揮し、田麦を特産品化し南蛮貿易の決済に当てるなど、農業行政で実績を上げ、得意とする治水以外に商業政策でも良策を実行。隈本(隅本)の地名を「熊本」と改名した。
肥後半国は、のちに加藤清正のライバルとなる小西行長である。

1589年、小西行長領の天草の国衆、天草種元(あまくさたねもと)が志岐麟仙らとともに反乱を起こすと、同じキリシタンだった小西行長は、穏便に済ませようと助命などを画策したが失敗。
加藤清正は小西行長の説得を無視して、出兵を強行し、敵将・木山弾正を討ち取るなど瞬く間に鎮圧。天草種元ら天草一族の多くが討死した。
反乱軍の中には武勇で知られる木山弾正と一騎打ちしたとされる。木山弾正は弓の名手で、矢を射ようとしたために加藤清正は「一騎打ちなれば、正々堂々打ち物(太刀)で勝負」と声を掛けて、手にしていた槍をその場で投げ捨てたところ、木山弾正も弓を捨てた為、加藤清正はすかさず槍を拾いあげて突いたとされる。
この木山弾正の妻・お京も、鎧兜を着て戦ったとされ、兜が梅の木に引っかかり討死にした逸話がある。この梅の木は「兜梅」という名で、現在も天草市本渡の延慶寺にある。

1590年には、小田原攻めにも参陣。

1592年、文禄の役で朝鮮外征。第2軍の主将として鍋島直茂相良頼房などを傘下に加え釜山に上陸。22800を率いて東道を進み、京城を経て、威鏡道、兀良哈まで平定し、不敗の将として鬼上官と呼ばれた。朝鮮の2王子・左右大臣ら200余人を捕虜とした。この人質のやり取りを巡って、和平的な考え方の小西行長との確執が深くなって行った。
また、加藤清正が大山のふもとに布陣した折りに有名な「虎退治」がある。本妙寺には、虎退治の錦絵が残っている。
1593年6月の第二次晋州城の戦いでは「亀甲車」を作り、配下の森本一久・飯田直景が、黒田長政の家臣・後藤又兵衛と一番乗りを競い、城を陥落させている。
また、加藤清正の家臣・沙也可(金忠善)が、朝鮮の風俗文物を慕い、豊臣秀吉の出兵は大義が無いとして、兵3000とともに慶尚兵使朴晋に寝返ったと言う伝承が残っている。

加藤清正は京都・本圀寺に自身の肉歯・毛髪を石室に納め、生き墓「真生廟」を建立して出征したと言われている。
また、この頃、正室・山崎片家の娘が病になったようで、のち亡くなっているが没年などは不明。

豊臣政権下では文治派、武断派が形成され、石田三成と対立した加藤清正は、豊臣秀吉より伏見に蟄居させられた。
しかし1596年、伏見大地震が発生し、豊臣秀吉がいた伏見城が倒壊したとき、加藤清正は蟄居身分でありながら300人の手勢を率いて、豊臣秀吉の警護を務めたと言われている。
一つ間違えれば切腹ものであったが、豊臣秀吉は加藤清正の忠義を賞賛して罪を許し、豊臣姓を称することを許した。これにより加藤清正は「地震加藤」と称されている。

1597年、慶長の役では再征軍の第1軍。蔚山城の籠城12日間、5万の明軍に苦戦した。8月 秀吉逝去により戦いは終結し、熊本に帰還した。
加藤清正は、朝鮮からセロリを日本に持ち帰ったとされ、セロリの異名の一つが「清正人参」である。

1598年、豊臣秀吉が死去すると、五大老の徳川家康に接近。
1599年、三河・刈谷城主である水野忠重の娘・かな(清浄院)が、徳川家康の養女となり、18歳で加藤清正の継室として大坂屋敷に入った。
1599年3月28日に前田利家が死去すると、福島正則や浅野幸長ら6将とともに石田三成を襲撃する計画を立てたが暗殺未遂で終わり、更に徳川家康への接近を強めた。

島津家の重臣・伊集院忠真が起こした庄内の乱を徳川家康が五大老として事態の収拾に務めたが、この反乱を加藤清正を支援していたことが発覚。
そのため、加藤清正は上洛禁止処分となり、1600年、関ヶ原の戦いの際、加藤清正は領国の肥後にいた。
そして、九州にて黒田官兵衛とともに徳川家康ら東軍に協力。

下記は加藤清正が杵築城を援軍しようとした際に陣を貼った別府を見下ろす山の中にある、加藤清正の像となる。

小西行長の宇土城立花宗茂柳川城などを攻略し、九州の西軍勢力を黒田官兵衛らと次々に破った。
戦後の論功行賞では、小西旧領の肥後南半を与えられ、52万石となっている。

大坂屋敷のかな姫は、関ヶ原の際の石田三成により正室人質を逃れる為、密かに脱出し、船底に隠れて瀬戸内海を渡り、険しい山を越えて肥後に逃れる事に成功した。

1601年、熊本を起点として東、南、北への道路の整備を行う。

1605年、従五位上・侍従兼肥後守に叙任。
 
1610年、徳川家の名古屋城普請に協力。名古屋城の天守台は加藤清正の構築である。

加藤清正は、徳川家康に従う一方で、終生、豊臣家への忠誠も忘れなかった。
1611年3月には二条城における徳川家康と豊臣秀頼との会見を取り持つなど和解を斡旋。
しかし、帰国途中の船内で高熱を発し、熊本に到着すると数日後からは舌が麻痺して言葉が話せなくなり、6月24日に熊本城で死去。享年50。

死因は諸説あるが、二条城から熊本に戻る途中に発病したことから、徳川家による毒殺説もある。
墓所は熊本市花園の発星山本妙寺。加藤清正公の遺骸は甲冑の武装のまま石棺に朱詰めにされ、現在の廟所内の清正公像の真下にあたるところに埋葬された。

南郷高畑城主・玉目丹波守の娘(側室)が1601年に産んだ三男・加藤忠広が家督を継いだが、11歳の若年であったため、重臣による合議制となり、藤堂高虎が後見人を務めたと言われている。
その後、1632年に加藤家は改易となり、加藤忠広は堪忍分10000石を与えられて出羽庄内藩にお預けとなった。改易の理由は諸説あり不明。

別府・旗の台(日蓮聖人像・加藤清正像)

上記本文の途中でもご紹介致しました別府にある加藤清正の像ですが、別府から山に入った九州横断道路(県道11号)の近くにあります。

関ヶ原の戦いがあった1600年9月、大友義統と黒田官兵衛が、石垣原の戦いとなります。
9月10日より合戦となりましたが、熊本城から3000を引き連れて駆け付けた加藤清正は、9月13日鳥居峠を越えてこの地に陣取りました。
そして、黒田勢の勝利を見届けた戸言います。
その後、南無妙法蓮華経の旗が立てられたこの地は旗の台と呼ばれるようになります。
現地には、日蓮聖人の像と共に加藤清正の像が建っていました。

下記の地図ポイント地点にある食堂の大きな駐車場を拝借して、山の中に伸びる遊歩道を50mほど進むと左側にあります。
隠れた加藤清正の観光スポットです。

熊本の浄池廟 加藤清正の墓

浄池廟(じょうちびょう)は加藤清正を祀る霊廟で、熊本・本妙寺(ほんみょうじ)の境内にあります。
もともと本妙寺は加藤清正の父・加藤清忠の冥福を弔うため、1585年、大阪に創建された寺院でした。

1600年に、加藤清正が熊本城下にあった瑞龍院に移しますが、1611年に加藤清正が没すると、遺言により中尾山上の浄池廟に清正像を奉安したと言います。
その後、1614年(慶長19年)に火災で焼失した本妙寺を、浄池廟の下に移転させて、現在の位置関係となった訳です。

その本妙寺から浄池廟へ登る階段にはたくさん石灯籠「胸突雁木」があるのですが、2016年熊本地震により、このような有り様になっていました。

胸突雁木と呼ばれる176段の石段を上がると「浄池廟」の扁額がある中門に達します。

門の近くには、2代藩主・加藤忠広が建立したとされる常夜燈楼(じょうやとうろう)がありますが、夜になっても加藤清正墓所の方角が分かるように明かりを灯したと言われています。

門をくぐると正面に拝殿があります。

明治維新後の際に、廟は取り壊されましたが、明治27年に廟が再建されました。 

境内には論語猿の像があります。
これは、加藤清正が論語を読む際に、漢文に訓読の朱点をつけたところ、飼っていた猿がキキッと筆をうばい、清正の真似をして論語を朱で塗りつぶしたと言います。
それをみて「昔中国では、猿が坊主の袈裟をうばい、坊主のマネをして座禅を組んだので、その猿たちは成仏したのと、この猿の行動は聖賢の道にかなっている。」として褒めたという「論語猿」の逸話があるためです。
なお、論語猿の頭をなでると、勉強が好きになれると信じられています。

下記は金宦の墓となります。
金宦(きんかん)とは会計職の意味で、この墓の主の本当の名は「良甫鑑」と言う朝鮮王子の小侍郎です。

朝鮮出兵の折にまだ少年だった良甫鑑は咸鏡道の道案内を務めたと言います。
そして、加藤清正を慕って日本へと同行して日本に帰化すると、200石を与えられ近習となりました。
熊本藩では会計の職に従事していたといいます。
加藤清正が亡くなったあとの七回忌の際に良甫鑑は殉死しました。
なお「金宦」は熊本城の加藤神社に陪神としても祀られています。

下記の栗毛堂は、加藤清正の愛馬の墓となります。

帝釈栗毛と呼ばれたこの馬は、六尺三寸(約1.9m)と大きな馬体であり、日本に輸入されたサラブレット種と考えられています。
この帝釈とは帝釈天のことで、梵天とともに仏法を守護する神と言う意味になっているようです。

さて、浄池廟の裏手にある石段を登って加藤清正の銅像を目指してみました。

下記の300段の石段を登った高台に、加藤清正の銅像があります。

しかし、この石段の脇にある石塔の多くが地震の影響で倒れています。

300段の石段と言う事で、登る前には覚悟していたのですが、階段の段差は結構「浅い」ので、とても登りやすく、あまり疲れる事はありませんでした。

と言う事で、加藤清正の銅像に到着です。
桜の名所にもなっていようです。

この高台からは熊本市街地の眺めも良いですが、訪問させて頂いた際には天候に恵まれず、このような状態でした。

浄池廟と加藤清正の銅像の見学所要時間ですが、約30分といったところでした。

<追伸>

熊本城には約20年前に、羽田から日帰りで訪問させて頂いたことがあったのですが、本丸御殿などが復元されてからはまだでしたので、2016年こそは再訪しようと考えておりました矢先に熊本地震が発生致しました。
そのため、熊本地震による熊本城再建のため「熊本城災害復旧支援金」にご寄付させて頂きました事を自己紹介欄に追記致しました事、ご報告申し上げます。
その後、2016年12月には上記の通り熊本を訪問もさせて頂きました。

改めまして、お亡くなりになられた方のご冥福と、被災された皆様にお見舞いを申し上げますと共に、一日も早く日常生活に戻れますよう、心よりお祈り申しあげます。

熊本地震災害のお見舞いを申し上げます
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当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)

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