河尻秀隆 (河尻肥前守) ~甲斐22万石も3ヶ月で夢と散る 


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 河尻秀隆(河尻肥前守秀隆)が生まれたのは1527年。
 出自は不明な点が多いが、美濃出身の土豪の一族で父は河尻親重か?
 母は織田信敏の娘。通称与兵衛。重遠,鎮吉とも称す。

 織田達勝(織田大和守)に仕えていたが、後に織田信秀(織田信長の父)に仕え、尾張岩崎村の河尻氏を継いだと考えられる。

 1542年8月に16歳で織田信秀に従って第1次小豆坂の戦いに参加し、1548年にも第2次小豆坂の戦いでの活躍が見られる。

 織田信秀の没後には、引き続き織田信長に仕え、織田家・黒母衣衆の筆頭を務めた。
 ※黒母衣衆とは織田信長に近侍する家臣(本陣要員の馬廻衆)から、更に選り抜かれた使番で側近中の側近。

 1558年、織田信長が弟の織田信勝(織田信行)を謀殺するために清洲城へ呼び寄せたときには、河尻秀隆が殺害を実行したとされている。

 1560年5月の桶狭間の戦いにも従軍。
 1564年の美濃攻めにも参加した。
 1565年には、夏の美濃猿啄城攻略で、9月28日夕方、美濃・堂洞城攻めで天主に1番乗りを果たす戦功を上げている。

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 1569年9月の伊勢北畠氏攻めにも参戦。この頃、美濃加茂郡の勝山城主。
 1570年6月28日の姉川の戦いにも参加し、戦後には磯野員昌が守る佐和山城攻めで付城の一角である西彦根山に布陣している。同年1570年9月の志賀の陣にも従軍。

 1572年1月、美濃岩村城の城主・遠山景任が子供が無いまま病死した為、織田信長は織田信広と河尻秀隆らを派遣。5男の坊丸(織田勝長)を遠山家の養子に据えた。
 しかし河尻秀隆らが引き揚げた後の10月に、武田信玄のが西上作戦に伴い秋山虎繁ら岩村城を攻撃。
 織田信広、河尻秀隆らは、救援の為岩村城へ向かったが、秋山虎繁に敗北を喫し、岩村城は前城主・遠山景任の未亡人で信長の叔母に当たるおつやの方(岩村殿)が降伏して、秋山虎繁が入城し、坊丸は人質として甲斐に送られた。

 1574年、前年に元服したばかりの織田信長の嫡男・織田信忠の軍目付に就任。すなわち、織田家家中でも優秀な参謀として抜擢された。
 武田勝頼に対する最前線である神箆城(鶴ヶ城)の守備を任せられた。同年1574年、伊勢長島一向一揆の鎮圧にも参戦。

 1575年5月、長篠の戦いでは織田信忠を補佐して参陣。織田信忠に代わって信忠勢の指揮を執ったとされる。
 織田信長が自らの兜を河尻秀隆に手渡し、そばにいた織田信忠に「以後は、この秀隆を父と思って、言う事を聞くように…」と諭したする逸話もある。

 同年1575年11月、織田信長は織田信忠に命じて大軍にて岩村城を包囲。秋山虎繁は和議降伏したが、織田信長は助命の約束を反故にし、河尻秀隆らは投降した城兵を処刑し、捕らえた秋山虎繁・おつやの方を美濃の長良川で磔にして処刑した。
 この功績で河尻秀隆は随一の功労者として、岩村城50000石を与えられ、岩村城主となり肥前守と称した。

 1579年には、織田信忠に従い、謀反を起こした荒木村重の摂津・有岡城攻めにも参戦。その際にも武功を上げている。

 1580年頃、近江安土城下に屋敷を所持。

 1582年2月からの武田攻め(武田勝頼甲州征伐)では、総大将・織田信忠の軍監・織田勢先鋒として50000の大軍の実質指揮官として岩村口から武田領に侵攻し、高遠城攻めで仁科盛信を自刃させ、天目山の戦いでは、武田勝頼を追い詰めて自害に追い込んだ。

 これらの大きな功績が認められ、論功行賞では3月29日、穴山信君に安堵した領地を除く、甲斐22万石と信濃・諏訪郡を与えられ、甲府城(府中城)を居城とした。
 甲府盆地や富士北麓、都留郡において文書が残存し、武田の残党に苦慮しつつも、黒印状を用いて広域支配を試みていたことが知られる。

 大大名となった河尻秀隆であったが、1582年6月2日、京都で織田信長が明智光秀に襲撃されて自害する本能寺の変が起こると、旧武田領の各地で武田遺臣による国人一揆が勃発。

 滝川一益や同僚の森長可毛利長秀らは新領地を放棄して、旧領へ帰還する中、河尻秀隆は甲斐国に留まり対応した。
 駿河の徳川家康は、甲斐に野心を抱き河尻秀隆を美濃に帰そうと、本多信俊を使者として送り、甲斐国内で武田の旧臣が不穏な動きをしているので美濃に兵を退くよう進言。しかし、河尻秀隆は応じず、疑心暗鬼のうちに本多信俊を殺害。
 しかし、その後発生した一揆に抗し切れず、河尻秀隆は甲斐国からの脱出を試みるも、岩窪の地において武田遺臣・三井弥一郎に6月18日に殺害された。享年56。

 山梨県甲府市岩窪町には、河尻秀隆の首塚とされる河尻塚(甲府市指定史跡)あるいは屋敷跡が伝えられている。
 積もり積もった恨みから逆さまに埋葬したとされ、河尻塚は「さかさ塚」とも言われている。
 なお死没の日については15日、18日の両説がある。

 河尻秀隆の死により空白地帯となった甲斐をはじめ武田遺領は、相模の北条氏直と、徳川家康が侵攻し、天正壬午の乱を制した徳川家康が甲斐を領することになった。
 

 河尻秀隆の子・河尻秀長は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に仕え、小牧・長久手の陣をはじめ、九州の陣・小田原の陣にも従軍し、朝鮮の役にも肥前名護屋城に詰めた。
 1599年には美濃などで10000石に加増され、苗木城主になったが、関ヶ原の戦いで西軍の石田三成に協力し戦死(または自害)した。

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