景徳院~鳥居畑の戦い(天目山の戦い)と武田勝頼の墓 訪問記

鳥居畑の戦い(天目山の戦い)

戦国時代の1583年3月、織田信長徳川家康の連合軍が甲斐に侵攻し、武田勝頼は家臣の離反が相次ぎ、一度、岩殿山城を目指しましたが、断念し真田昌幸岩櫃城を目指して天目山方面に逃亡しました。
しかし、織田・徳川勢についに捕捉され、この景徳院がある田野の地で終焉を迎えたのでした。

20140604164147135

上記写真は、鳥居畑の戦い(鳥居畑古戦場、天目山の戦い)の碑です。県道218号沿い、田野の景徳院のちょっと手前にありますが、見落としやすいです。
滝川一益河尻秀隆ら4000に対して、武田勝頼勢はこの時すでに僅か50名ほどだったとされます。


スポンサーリンク



景徳院は県道218号沿いに無料駐車場があります。駐車場から西野屋のウラを通り、階段を上ると山門があります。
見学所要時間は駐車場から往復20分程度で、階段も長くないのでキツクありません。
 
20140604164146973

写真は景徳院山門です。幾たびかの大火により諸堂を焼失しましたがこの山門だけは、江戸時代の1579年3月に建立されたものが残っています。
そもそも「景徳院」は、武田勝頼公の死を弔うため、徳川家康が武田滅亡後すぐさま、1583年7月に武田遺臣に命じて、建立させました。

20140604164147003

山門から右にソレて行くと武田勝頼の墓があります。
左から武田信勝の墓(武田勝頼の嫡男)、真ん中が武田勝頼の墓、右が北条夫人(武田勝頼の正室)の墓。
ただし、この墓は江戸時代の1775年3月11日の法要の際に建てられた模様です。


スポンサーリンク


2006年の保存修復中に、武田勝頼、武田信勝、北条夫人の法号である「景徳院殿頼山勝公大居士(けいとくいんでんらいざんしょうこうだいこじ)」、「法雲院(殿)甲巌勝信大居士(ほううんいんでんこうげんしょうしんだいこじ)」、「北条院殿模安妙相大禅定尼「(ほうじょういんでんもあんみょうそうだいぜんじょうに)」と記載された大量の経石が発見され、地下には埋納施設が存在する可能性も指摘されています。

20140604164147033

上記は、武田信勝公生害石。他にも下記の通りあります。

武田勝頼の生害石

上記は武田勝頼の生害石。

北条夫人の自刃石

上記は北条夫人の生害石。
しかし、この地に平べったい大きな石が、都合よく3つあったのにはどうも納得いきません。
後世に石を埋めて供養した?
雰囲気を出すためにあとになって設置された石のような気がしてなりません。

20140604164147065

上記は、景徳院の傾斜地にある「没頭地蔵尊」。首無し地蔵とも呼ばれ、武田勝頼の正室(北条夫人) 19歳の遺骸を葬った場所とされます。

20140604164147101

首洗池は、景徳院のすぐ下にある雨沢口に湧く清水の池で、徳川勢が首を洗ったとされています。この標の下にあります。

20140604164147170

上記は「土屋惣蔵片手切り」の碑です。景徳院から県道をかなり上流部に行ったところにあります。
武田勝頼一行は、天目山栖雲寺を目指して景徳院の田野から更に奥まで進んでいたのですが、既に深沢口から反対側に敵が廻り込んでおり、この地で土屋惣蔵が殿を務め、武田勝頼一行は田野まで後退し、岩櫃城行きを断念しました。
詳しい話は下記をご参照願います。

武田氏滅亡の武田勝頼・天目山の戦いと小山田氏滅亡

行き方(アクセス)ですが、下記の地図ポイント地点に大きな無料駐車場とトイレがあります。
そこから、景徳院だけを見るのであれば、見学所要時間は30分といったところになるでしょうか。
夏場は虫除け対策、冬場は滑り止め対策にて是非ご訪問さなってみて下さい。

天目山の戦い

武田勝頼の逃避行の詳細はこちら
跡部勝資~最後まで勝頼に従い共に討死した武田忠臣
真田昌幸~戦国時代を巧みに生き抜き真田家を守った名将
穴山梅雪とは~武田家の親族衆筆頭
最後の最後まで武田勝頼に仕えた土屋昌恒
新府城から天目山の戦いまで武田勝頼一行の足跡を辿る山梨史跡巡り
小山田八左衛門の墓~郡内・小山田氏一族
小山田茂誠【小山田重誠】とは~真田家を頼った小山田一族
武田信勝とは
小山田記~実録・小山田氏の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
北条夫人~運命に翻弄された武田勝頼の正室 (北条氏康の娘)
笹子峠の矢立ての杉・笹子隧道・駒飼宿本陣跡~マイナー史跡もたまにはいいよ
武田家カテゴリは約110記事ありますので、よければご覧頂けますと幸いです

コメント

  • コメント ( 0 )

  • トラックバックは利用できません。

  1. この記事へのコメントはありません。