天正遣欧少年使節とは~戦国時代にローマへ渡った4人の少年使節団の運命

天正遣欧少年使節

現代は飛行機に乗れば、簡単に海外に行けますね。
近い国だったら数時間で着いてしまうため、機内で寝て起きたら目的地に着いていたという経験のある人もいるのではないでしょうか。
しかし飛行機が発明されたのはほんの100年ちょっと前。それまでは日本から海外に行くには船しかありませんでした。
嵐や座礁による難破、熱病、海賊などの危険にさらされながらの航海は正に命がけでした。
さて、今回は今から約400年前、命がけの航海を経て、日本からはるか遠く離れたローマへ渡った4人の少年、天正遣欧少年使節(てんしょうけんおうしょうねんしせつ)について紹介します。

「小ローマ」と称された長崎

天文17年(1549年)にポルトガル人宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、翌年に長崎県の平戸で布教を開始します。
ここで日本に初めてキリスト教がもたらされます。
この頃、大村城(現在の長崎県)の領主 大村純忠がキリスト教に入信します。
純忠はポルトガルとの貿易のために横瀬浦・福田を開港しました。


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元亀元年(1870年)には長崎を開港し、翌年に初めてポルトガル船が入港しました。
また純忠が天正8年(1580年)にカトリック修道会イエズス会に長崎と茂木を寄進したことで、領内には多くの教会が建てられました。
南蛮船の寄港、町を行き交う南蛮人、領内に建つ教会。
こうして長崎は「小ローマ」と称されるほどの国際都市へと発展していきました。

天正遣欧少年使節の出発

大村純忠が長崎をイエズス会に寄進した前年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが口之津(長崎県島原半島)に来航しました。
巡察師とは布教先の状況を視察する役割のことで、ヴァリニャーノもイエズス会の上長の命令で日本に派遣されました。
当時、大村藩の領民の多くがキリシタンでした。しかしヴァリニャーノは彼らが、貿易の利益が目当てで入信した領主によって、強制的に改宗させられたことを見抜いていました。
また、当時の日本布教長フランシスコ・ガブラルが日本人を嫌っていたため、日本に馴染もうとしないばかりか、日本人信徒に対して高圧的な態度でした。そのため日本人信徒との関係は上手くいっていませんでした。
こうした状況を目の当たりにしたヴァリニャーノは、日本での布教改革を推し進めていきます。
その改革の一環として彼は、日本人使節にヨーロッパ世界を見せ、彼らを司祭にすることで、日本人によって日本での布教を進めようと考えました。
その使節に選ばれたのが、当時13~14歳だった伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアンの4人の少年でした。
4人の少し変わった名前は洗礼名といって、キリスト教に入信した時に付けられる名前です。
彼らは皆、有馬にあったセミナリヨという初等神学校の生徒でした。


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天正年(1582年)2月20日 使節の一行は目的地ローマを目指し、長崎港を出発しました。
生還率50%以下という大航海時代。この時、千々石ミゲルの母親は「無事に帰国することは叶わないでしょう。覚悟は決めています。」と言ったといいます。

ヨーロッパ各地での歓待

 一行を乗せた船は長崎を出発して3日目あたりから嵐に襲われ、彼らは船酔いに苦しみました。
ミゲルはこの時の苦しみを「五臓六腑も吐き出されるのではないかと思った…。」と語っています。
一行はマカオ、マラッカ、コチン、ゴアなどを経由しながら、ポルトガルのリスボンを目指します。
この間、暑熱により船に積んだ食料が腐敗したり、マンショが赤痢に罹ったり、海賊に襲われるなど苦難が続きますが、一行はなんとかリスボンに到着します。長崎を出発して2年6ヶ月が経っていました。
初めて見るヨーロッパの建物にミゲルは「驚嘆を禁じえない…。」と言ったといいます。
エヴォラ大聖堂ではマンショとミゲルが弾いたパイプオルガンを演奏し、大司教を喜ばせました。このパイプオルガンは現在も残されています。
続くマドリードでは当時、スペインとポルトガルの王を兼ねていたフェリペ2世に謁見し、その後も各地で篤い歓待を受けました。
そして、地中海へ渡り、ついにイタリアに上陸。国境近くからは教皇グレゴリウス13世が300名の兵を送り、一行は護衛されてローマに入ったのでした。
教皇との謁見はヴァチカン宮殿の帝王の間で行われました。キリスト教会の代表者が集まる中、少年達は大友宗麟有馬晴信、大村純忠の書状を教皇に差し出し、教皇と通訳を通して会話を交わしました。
このグレゴリウス13世は使節と謁見してまもなく、高齢のため崩御してしまいます。
その後に即位したのがシスト5世でした。
彼も即位2日後に使節と会い、自身の戴冠式の行列に彼らを参加させました。
この時の行幸の様子がヴァチカン図書館「シスト5世」の間の天井絵に描かれており、馬に乗った4人の少年も描かれています。
4人はここで、ローマに市民権が与えられ、貴族にも列せられました。
日本布教のための資金や贈り物、旅費も与えられ、輝かしい功績を日本に持ち帰ることとなります。

暗雲立ちこめる日本への帰国

天正18年(1590年)7月、4人は無事に帰国を果たします。出発時は13歳前後だった彼らも、8年の歳月を経て、21~2歳の立派な青年に成長していました。
宣教師ルイス・フロイスの記録によると『(少年達が出発時から成長していたため)彼らの親でさえ、自分の子供の顔の見分けがつかなかった』といいます。
帰国の翌年には4人揃って、ヴァリニャーノと共に聚楽第で関白豊臣秀吉に謁見しています。4人は秀吉の前でヨーロッパから持ち帰った楽器を演奏しました。
マンショがバイオリン、ミゲルがチェンバロ、マルチノがハープ、ジュリアンがフルートでした。秀吉は演奏を非常に気に入り、3回もアンコールをしました。
謁見は無事に終わったものの、秀吉は彼らの帰国の3年前に伴天連追放令(国内の宣教師を国外に追放する法令)を発布。


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キリスト教を『邪法』と称し、忌み嫌っていました。出発前とまるで変ってしまった状況に4人は愕然とし、不安を感じたに違いありません。
それでも4人はその後、天草のノビシアード(修道者と司祭養成のための修練院)でイエズス会に入会し、日本での布教に命を捧げる決意をします。
さらにコレジヨ(ノビシアードより上の日本人修道者養成機関)で、キリスト教やラテン語の勉強をします。
彼らはそれぞれの才能を活かし、それぞれの道を歩み出したのでした。

(寄稿)中みうな

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