吉川元春~毛利家の中国制覇に大きく貢献した名将


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毛利元春、吉川元春(きっかわもとはる)は毛利元就の次男で、母は正室・妙玖(小倉山城・吉川国経の娘、本名は不詳)。
1530年に安芸の吉田郡山城で誕生した。1533年には弟・徳寿丸(のちの小早川隆景)も生まれている。
幼い頃に弟の小早川隆景と雪合戦を行ない、小早川隆景の策によって裏をかかれ敗れたが、生涯での敗北はこの時の一度きりと言われている。

1537年、兄・毛利隆元が大内義隆の人質となり、毛利家は大内家との関係を強化。

1540年、出雲の尼子晴久が吉田郡山城を攻めた際に、初陣を飾ったが、この時はまだ12歳と元服前で、父・毛利元就の反対を押し切って出陣したと言う。
この時、30000の尼子勢に対して、毛利勢は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して勝利した。

1542年~1543年に、毛利勢は大内義隆に協力して、月山富田城の戦いに従軍するも、大内勢は大敗し、毛利勢も命からがら帰還。この頃から、毛利元就は小領主から脱却するよう行動を開始する。

1543年8月、兄・毛利隆元より「元」の字を受けて毛利元春と名乗ったとされる。

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1544年、弟の徳寿丸が、後継者がいなかった竹原小早川氏の養子となり、小早川隆景と改名した。これにより、毛利家は強力な小早川水軍を手に入れた。
1545年秋、母・妙玖が亡くなる。享年47。

1546年、父・毛利元就が隠居を表明し、毛利家の家督を兄・毛利隆元が継いだ。しかし、引き続き毛利家の実権は毛利元就が掌握しており、毛利元就が謀略活動を行いやすくする為の表向きであった。

1547年、18歳の時、独断で吉川家家臣である高松城主・熊谷信直の娘・芳桂(新庄局)を正室に迎えた。一説によると吉川家臣団の中より芳桂を名指しで妻に迎え、信望を得たと言う。
ちなみに、毛利隆元、小早川隆景と同じように、吉川元春も側室は持たなかった。

1547年7月、毛利元春は子の無かった北就勝の養子になる約束があったが、吉川経世らの再三の要求もあり、母・妙玖の実家である吉川興経の養子となった。
これは大内氏と尼子氏と鞍替えを繰り返しり、新参の家臣を重用した吉川興経への不信感を持った、叔父・吉川経世や、吉川家臣団の政略であり、吉川興経自身の命の保証と、吉川興経の子・千法師を吉川元春の養子として、成長したら家督を相続させると言う条件で、吉川興経がやむなく承服したとされる。

1548年、嫡男・吉川元長が誕生。

1549年2月、毛利元就が吉川元春と小早川隆景を伴い山口へ下向。

1550年、吉川興経の不穏な噂も出た為、毛利元就は粛清する決断。強制的に吉川興経を隠居させ、更に動きを封じるため、正室・宮庄経友の娘、吉川千法師と共に、吉川領内ではなく安芸の布川に隠居させ、吉川元春に家督を継がせた。
そして、1550年9月、将来の禍根を断つため、隠居館を吉川家の家臣・熊谷信直・天野隆重らに急襲させ、吉川興経、正室、子の千法師(10歳前後)ともども殺害した。
あらかじめ、吉川興経の刀の刃を潰し、弓の弦も切らせていた為、吉川興経はほとんど抵抗できず、熊谷信直の家臣・末田直共が首を取った。
こうして、毛利家は、格上の吉川家を事実上乗っ取る事に成功し、ここで初めて吉川元春は吉田郡山城から吉川領内に出向いた。

吉川元春は安芸大朝の小倉山城に入ったが、まもなく要害の地である日野山城を築くと拠点を移す。
そして弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、山陰地方の政治・軍事を担当した。

1555年、厳島の戦いで、吉川元春は小早川勢と協力し、義兄弟の仲であった陶晴賢が率いる大内軍を撃滅。

1556年、次男・毛利元氏が誕生。
1556年からは石見に遠征し、尼子晴久と何度か戦うも退けられた(忍原崩れ、降露坂の戦い)。

1557年、毛利元就が正式に隠居。吉川元春は小早川隆景と共に「両川」(りょうせん)として毛利家を支える中核となった。

1562年からは、父・毛利元就と共に出雲の尼子義久を攻めたが、1563年9月1日、尼子攻めに参加する途上にいた毛利隆元が、接待の直後、安芸の佐々部で急死。享年41。
死因は食中毒とも毒殺とも言われ、その後、毛利元就は和智誠春・柚谷新三郎・湯谷又八郎・又左衛門・赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐・切腹させている。
毛利家の家督は、毛利隆元の嫡男・毛利輝元が継いだ。

1565年、第二次・月山富田城の戦いで、吉川元春は毛利家の主力として参戦し月山富田城を包囲。嫡男の吉川元長は、毛利輝元と共に初陣を飾った。
月山富田城攻めの陣中で、吉川元春は「太平記」40巻を全て完璧に書写し、この書写本は岩国市の吉川史料館が保管し「吉川本」として国の重要文化財にもなっている
そして、1566年11月28日、籠城を続けていた月山富田城はついに降伏し、尼子義久は命は助けられ、安芸円明寺に幽閉され、尼子氏は滅んだ。
これにより、毛利家は中国地方8ヶ国を支配する大大名となった。
 
1569年からは尼子氏再興を願う尼子家旧臣・山中幸盛らが率いる尼子再興軍が蜂起した為、吉川元春は鎮圧の為戦い、布部山の戦いでは尼子再興軍を撃破。
また、大友宗麟の庇護を受けていた大内氏の一族・大内輝弘が周防に侵攻すると、吉川元春・小早川隆景・福原貞俊ら10000は、大友家の援軍が来ないうちに、一気に1000の大内輝弘を攻めて自害に追い込んでいる(大内輝弘の乱)。
毛利家は中国10ヶ国120万石の支配者になった。

1571年6月14日、毛利元就が吉田郡山城において死去。死因は老衰とも食道癌とも言われる。享年75。
跡を継いだ若い毛利輝元を、吉川元春(41歳)と小早川隆景が補佐することになった。

1571年8月、謀略を用いて尼子勝久の再興軍が最後の拠点にした新山城を攻略。山中鹿之助(山中幸盛)を捕虜として、尼子勝久を敗走させた。山中幸盛を尾高城に幽閉したが、監視を油断させる謀略を用いて脱走している。
京に逃れた尼子勝久・山中鹿之助らは織田信長の援助を受けて、1573年12月には再び因幡へ攻め入り、織田方の浦上宗景の助力もあって一時的に尼子氏を再興することに成功したが、強力していた但馬の山名祐豊が、1575年3月、毛利家に味方すると、1575年10月、吉川元春は亀井茲矩の籠もる私都城を攻略し、尼子遺臣であった横道兄弟・森脇久仍・牛尾大炊助らを毛利家につけた。
これにより、尼子再興軍は1576年5月に京へ撤退した。その後、織田信長の軍勢として明智光秀勢に加わっていた山中鹿之助ら尼子再興軍は、播磨に進出していた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の攻撃に参加して、三度目の再興を目指して毛利方の拠点である赤松政範の上月城を1577年に攻略。

尼子勝久や山中鹿之助らは上月城を拠点としたが、1578年2月、三木城の別所長治が織田信長に叛旗を翻すと、吉川元春らは好機と捕えて小早川隆景らと播磨に攻め込み、1578年4月、上月城を包囲。
羽柴秀吉は荒木村重らとともに上月城の救援に向かい、織田信忠を総大将として滝川一益佐久間信盛、明智光秀、丹羽長秀細川藤孝らも布陣したが、毛利勢と一戦を交えるには兵力が足らず、また織田信長からも三木城攻撃を優先するよう命じられた為、高倉山合戦で吉川元春らが勝利すると、織田勢は撤退した。
その結果、山中鹿之助らの上月城は孤立無援となり、1578年7月5日に降伏した(上月城の戦い)。
尼子勝久は切腹となり、山中鹿之助(山中幸盛)は捕虜として、備後・鞆の浦に陣取る毛利輝元の下へ護送されることとなになったが、途中の備中国合(阿井)の渡で謀殺された。

一方、毛利家は1576年に最後の室町幕府将軍である足利義昭を安芸国鞆に迎えている。

1578年10月、三木合戦で羽柴秀吉勢に加わっていた荒木村重が織田信長に反旗を翻したが、12月に有岡城から逃亡し、織田勢は謀反を鎮圧。
1579年10月には、宇喜多直家が毛利家と手を切って織田信長に臣従。
1580年、毛利家に援助を求めていた三木城が落城して別所長治が自害すると、備前の宇喜多直家や伯耆の南条元続なども織田家に与し、豊後の大友宗麟も織田信長に呼応して毛利領に侵攻開始。
1581年、鳥取城で吉川一族の吉川経家が自刃するなど、羽柴秀吉が東から、同時に西からは大友家が圧迫してくるという二正面作戦を余儀なくされた毛利家は、当然の如く追い詰められていった。

1582年、清水宗治らが籠城する備中高松城が羽柴秀吉・黒田官兵衛竹中半兵衛らに攻撃されたため、吉川元春は毛利輝元・小早川隆景らと共に救援に赴いたが、羽柴秀吉が水攻めしたこともあり、積極的に羽柴勢とは戦わず、また羽柴秀吉も被害が拡大することを恐れて迎撃しなかったため、戦線は膠着状態となった。
そんな中、1582年6月2日、本能寺の変が起こり、織田信長が明智光秀の謀反で横死。
羽柴秀吉は本能寺の変を隠して「毛利家の武将のほとんどが調略を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊に知らたので、毛利勢は疑心暗鬼に陥り、羽柴秀吉との和睦を受諾せざるを得なかった。
その結果、備中高松城の清水宗治らは切腹し、羽柴秀吉らは備中からの中国大返しを断行し、山崎の戦いで明智光秀を討ち破った。

「騙された!」と憤慨した吉川元春はぐに追撃しようとしたが、小早川隆景・安国寺恵瓊らが「和睦を破ると毛利家の信用は失墜する」と制されてできなかったとされる。

1582年9月頃からは、羽柴秀吉の使いとして黒田官兵衛と蜂須賀小六が毛利家と交渉して、毛利との国境線を確定。
実質、毛利家は羽柴家に臣従する形となり、織田家で清洲会議が行われ、羽柴秀吉が織田家での実権を握った頃の1582年12月、吉川元春は家督を嫡男・吉川元長に譲って隠居した。
この隠居は、羽柴秀吉に臣従するのを嫌ってとされている。
日野山城の西南山麓に「吉川元春館」と呼ばれる隠居館を1583年に建設開始し、未完の館で隠居を開始した。
この頃、3男・吉川広家は、毛利家安泰の為、羽柴秀吉の人質として大阪城に出されている。
 
その後は、毛利家は羽柴秀吉の天下取りに協力し、小早川隆景は1585年の四国攻めにも参加したが、吉川家は嫡男・吉川元長が出陣し、吉川元春は隠居館に留まった。
1586年の九州攻めでは、羽柴秀吉の強い要請もあり、小早川隆景と毛利輝元らの説得を受け、隠居の身でありながら参戦している。
しかし、吉川元春はこの頃既に、化膿性炎症(癌?)を患っており、出征先の豊前・小倉城の二の丸で死去した。享年57。隠居館建設半ばの1586年11月15日の事である。

翌年の1587年5月、後を追うように、嫡男・吉川元長が出陣先の日向で病に倒れ、6月15日に日向都於郡で病死。享年40。
館跡の奥、林の中には吉川元春・吉川元長の墓所がある。

その後の吉川家14万石は、3男の吉川広家が継いだ。
この吉川広家は、関ヶ原の戦いにおいて黒田長政を通じて徳川家康に味方し、岩国城10万石の初代領主となり、のち錦帯橋が掛けられるなど現在の岩国市の基礎を築いた。
また、俳優でミュージシャンの吉川晃司は、吉川元春の子孫である。

寡黙な武人にして毛利家屈指の猛将として知られる吉川元春は、父・毛利元就ですら「戦では元春に及ばぬ」、「眼東南を見て、心西北にあり」と言わしめるほどの武勇を誇った。
 
吉川元春は生涯76回戦って、64勝し、1敗もしなかった不敗の名将として知られるが、近年の検証では、忍原崩れや降露坂の戦い、鳥取合戦など結果的に敗北した戦いも幾つかあるとされている。

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