日出城の木下延俊とは~立派に明治まで生き抜いた豊臣家一族


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日出城は「ひじじょう」と読む。別名は暘谷城、青柳城とも言う梯郭式平山城で、別府湾に臨む海岸段丘に築かれた海城と言える。

戦国時代、大友家の家臣・大神氏が日出城を本拠としており、1593年に大友義統が改易されたあと、速見郡の郡代として入った豊臣秀吉の家臣・毛利重政(毛利高政の兄)が、日出城の城代となっている。
ただし、この頃の日出城は現在の場所とは異なるとの指摘もある。

とは言え、立派な天守台があると言うので、日出城も訪問してみた。

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日出城は木下延俊と言う武将が築城した。

この木下延俊(きのした-のぶとし)は、木下家定の3男として1577年に尾張で生まれた。
母は杉原家次の娘・あこ(おあこ、雲照院)となる。

父・木下家定の母は朝日殿(朝日局)で、豊臣秀吉の正室・北政所(おね)と兄弟、すなわち、寧々の兄が父・木下家定と言う事になる。

父・木下家定の長男は木下勝俊、続いて木下利房となり、木下延俊は3男、弟には木下俊定、小早川秀秋、木下俊忠、木下秀規、周南紹叔といる。

木下延俊は、12歳のときである1588年11月に摂津・駒林(駒ヶ林)に500石の知行を与えられた。
父・木下家定が姫路城を留守にする際には、木下延俊が姫路城の留守を守ってもいる。

木下延俊は北政所(高台院)から最も寵愛を受けて育ったともされ、正室には細川藤孝細川幽斎)の娘・加賀を迎えている。

1592年には、従五位下右衛門大夫に叙任され、1594年になると、播磨三木郡で2万石に取り立てられ、伏見城の普請も担当している。

朝鮮攻めで、木下左衛門尉(木下延俊)は、250騎にて名護屋城に赴いたため、名護屋城のすぐ南側に木下延俊陣跡もあり、名護屋城博物館の野外展示施設の一部となっている。

1600年、石田三成が挙兵した際に、木下延俊は姫路城におり、義兄・細川忠興の助言を受けると、直ちに駿府城へ家臣を派遣した。

そして徳川家康に味方する事を伝えると、交通の要所である姫路城を徳川家に献上して、最初から東軍に属している。
なお、叔父の播磨・三木城主である杉原長房などは、西軍について田辺城の戦いに参加し、最後まで情勢を見極められなかった小早川秀秋は関ヶ原で西軍を裏切っている。
しかし、木下延俊は終始徳川勢に味方しており、東軍に寝返って姫路城に帰還しようとした小早川勢の受け入れを拒否して、弟・小早川秀秋との関係を断ったとも言われている。

兄・木下勝俊は関ヶ原の戦いの際、徳川家康の命で伏見城の松の丸守備の責任者であったが、伏見城の戦い直前に自らの決断で伏見城から脱出。
その後は武家を捨て、風流人として余生を過ごした。

関ヶ原で西軍が敗れたあと、姫路にいた木下延俊は細川忠興と、小野木重勝の本拠・福知山城を攻撃し開城させている。

これらの功績が評価され、1601年、木下延俊は豊後・速見郡3万石に加増移封となった。
1602年には、新城として日出城の築城を開始して、初代の日出藩の礎を築いている。
城下町も整備し、祖母・朝日殿と妻の法名に関連する「松屋寺」を創建し、井手八幡宮の再建などを行った。
縄張りをしたのは細川忠興のようで、木下氏家臣で穴太衆の穴太理右衛門が野良積み技法で石垣を構築したとある。

日出城の別名である「暘谷城」という名称は、中国の「淮南子」からとった名で、木下延俊は漢籍などにも精通しており、また茶人としても知られるため教養があったようである。

また、江戸城の天下普請では虎ノ門の石垣工事を担当するなど、合計3回と自ら現地で積極的に指揮した。

更に、大坂の陣にも徳川勢として参陣している。

1632年、肥後・熊本城主の加藤忠広が改易された際には、隣りの稲葉一通と共に八代城まで出向き、1637年には島原の乱でも参じた。

そして、1642年1月7日、江戸にて木下延俊は死去。享年66。

遺領のうち2万5000石は三男(嫡男)の木下俊治が継ぎ、速見郡立石5000石は四男・木下延次(木下延由)に分け与えられた。

日出城のニの丸北東隅には、2重2階の鬼門櫓がある。
近年まで民家に移築され荒廃していたのを、元の場所に再移築され、現在は資料館となっている。

本丸は南東隅に2重の天守があったとされ、望海櫓、南櫓、北櫓、月見櫓、隅櫓、裏門櫓と充実もしていた。

しかし、3万石の小藩としては、この天守台の規模は大変立派であり、5階の天守がそびえていたとしてもおかしくない。

明治に廃城される際に行われた3層天守の測量では、1階部分が広くて大きいのにも関わらず、2階と3階が小さい建物になっていると言う特異な形状だったと言う。
3万石とは言え、豊臣一族としての意地を示すべく、努力をしたようにも感じる。
しかし、石高3万石では明らかに予算が足りないだろうから、少なくとも石垣の提供などは、細川家の援助があったことだろう。

下記の写真は人柱の祠。

1960年(昭和35年)に城下の遊歩道整備の際に、ここから木棺が発見されている。
築城当時、城の海側は地盤が弱く難工事であったため、高齢の武士が人柱になったと言う伝承もあることから、人柱の墓ではないか?と推測されている。

さて、日出城への行き方・アクセスであるが、下記の地図ポイント地点に無料駐車場があり利用できる。

日出城の見学所要時間は、約30分であった。

それにしても、見事に天下を取るも滅亡すると言う豊臣家の一部始終を見届けた、木下延俊の心境は、どのようなものであったのだろうか・・。

松屋寺・木下延俊の墓

少しだけ時間があったので、木下延俊の墓がある松屋寺にも寄ってみました。
木下家墓所は、本堂の左手にある塀の「扉」(開いている)から奥へと入り、右の山肌にあのます。

下記は木下家定の墓。

木下家定の妻・雲照院(杉原家次の娘)の墓もありました。

木下延俊の正室である細川藤孝の娘・加賀の方の墓もありましたが、このように女性の墓が藩主と同じ場所にあるのはなかなかありません。

木下延俊の墓は東京の泉岳寺にもありますが、日出の菩提所・松屋寺にも分骨されています。

下記は4名の殉死者の墓です。

木下延俊は家臣からも慕われていたことが伺えますね。
木下ファミリーは非常に仲が良かったのだと思わせる墓所でしたが、いつもと違い、なぜか大変緊張感を感じたお参りとなりました。

松屋寺へのアクセス・行き方ですが、下記の地図ポイント地点が駐車場(4台ほど)となっています。

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