清須会議とは(清洲会議とは)~清洲城・織田家宿老の会議

清須会議とは

清洲会議・清須会議(きよすかいぎ)

戦国時代の1582年6月2日、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が討たれ、織田信長の嫡男・織田信忠も二条新御所で善戦するも兵力差は大きく、自害した。
実は、織田信忠はこの時、兵を1000(3000とも)を率いており、逃げようと考えれば、京から逃げられたはずであった。
しかし、家臣・村井貞勝の提案もあり、明智軍と戦う方針を取った為に、織田信長・織田信忠の親子は敢え無く命を落としたのだ。

その後、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、軍師・黒田官兵衛の進言もあり「中国大返し」を行い、織田家の重臣・池田恒興や、堺で織田信孝(織田信長の3男)の指揮下にあり、四国征伐出陣準備中であった織田家重臣・丹羽長秀も合流。
羽柴秀吉勢は1582年6月13日 山崎の戦い(天王山の戦い)にて、明智光秀を撃破。
明智光秀は本拠地の坂本城へ落ち延びる途中で命を落とし、羽柴秀吉は、織田信長の弔い合戦に勝利した。


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一方、名実ともに織田家の筆頭家老であった柴田勝家は北陸方面で上杉景勝の越中国・魚津城を攻略中で、即座に離れて、京に上り、明智光秀を討つことができなかった。

織田信長と言う絶対的盟主を失った織田家では、早急に後継者や、遺領の配分を取り急ぎ決める必要性があり、織田家家臣筆頭の柴田勝家は、主だった有力家臣を召集。
尾張の清洲城にて会議が1582年6月27日に開催された。
この会議が「清洲会議」(清須会議)と呼ばれている。

清洲会議への出席者は、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、もう1人の有力家臣だった滝川一益は関東地方で北条氏政との対陣中で清洲に駆けつける事が困難であり欠席した。

織田信長の子である織田信雄(2男)と織田信孝(3男)も清州城に来ていたが、お互いに後継者を争っていたことから、会議に出席することを許されなかったと言う。

織田家家臣筆頭の柴田勝家としては、織田信長の3男・織田信孝(欠席)を、織田家当主にと擁立し、織田家での実権は筆頭の柴田勝家にあると言う事を、他の有力家臣に承認させると言う、いわば「手続き」に過ぎなかった。
そんな柴田勝家の考えに、丹羽長秀は同調。池田恒興は中立の立場を取り、会議の行く末を見て、強い方に味方しようと考えていた。
織田信長の妹・お市の方は、浅井氏滅亡の恨みから羽柴秀吉を嫌って、柴田勝家に賛同した。

一方、明智光秀を討伐した羽柴秀吉は、その功績を背景に、当初、2男・織田信雄を後継者に推挙したとされる。


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一般的に良く知られる家督相続問題では羽柴秀吉の軍師・黒田官兵衛の知恵もあり、柴田勝家の意見を抑え込み、織田信長の嫡孫にあたる織田信忠の嫡男・三法師(織田秀信、3歳)を後継者にすることに、羽柴秀吉は成功したとある。
しかし、この三法師擁立は江戸初期成立の娯楽物「川角太閤記」から出始めた内容で、創作である可能性が高く、脚色された内容だとも言えるのだ。
大村由己の「天正記」では、清洲会議について、後継者問題はすんなり三法師に決まったように記載されている。  小瀬甫庵の「太閤記(甫庵太閤記)」でも、清州会議の段階では既に三法師が後継であることが決まっていたような書き方だ。
実際の清洲会議においては、柴田勝家は織田信孝、羽柴秀吉は織田信雄と、両者譲らない姿勢であったことから、内紛になってはいけないと考え、丹羽長秀・池田恒興が妥協案として、三法師擁立を提案した可能性もある。
そして、柴田勝家への配慮の結果、三法師は柴田勝家が推す織田信孝の後見を受けた言うのが実情に近いと考える次第だ。

さて、領地再分配は下記の通り。

2男・織田信雄は尾張国
3男・織田信孝は美濃国
羽柴秀勝(織田信長の4男)は明智光秀の旧領である丹波国
柴田勝家は越前国を安堵 + 柴田勝家の希望を受け、羽柴秀吉は領地である長浜城と北近江3郡を譲渡している
丹羽長秀は若狭国を安堵 + 近江国の2郡
池田恒興は摂津国から3郡を加増
三法師は近江国坂田郡と安土城を相続
羽柴秀吉は山城国

このように、結果的に三法師の後見には、柴田勝家側の織田信孝が当たることで、清洲会議(清須会議)は終了した。

この三法師、本能寺の変の際には、父・織田信忠の居城・岐阜城にいたが、前田玄以、長谷川嘉竹あるいは木下某(小山木下氏)に保護されて清洲城へと避難していた。
この後継者問題の会議も、その三法師が滞在していた清洲城で行われていることから、最初から三法師で決まっていたとも、考えられた要因の1つになっている。

わずか3歳の三法師は直轄領として近江国・坂田郡30000石を与えられ、代官・守役は羽柴秀吉の軍監も務めた堀秀政が務めた。
1582年10月20日付の堀秀政書状では羽柴の名字を使用しており、羽柴秀吉の一族以外で初めて羽柴氏(名字)を与えられた、と考えられている。

安土城が修復されるまで、織田信孝の岐阜城に滞在する決定となっていたが、これを発端として羽柴秀吉と織田信孝は干戈を交えることとなる。
織田信孝が羽柴秀吉に降伏した後、三法師は一応の整備がなった安土城仮屋敷へ移り、織田家の家督代行となった織田信雄の後見を受けた。


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清洲会議で羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、織田家の実権を握ったと言うよりは、清洲会議にて織田家筆頭であった柴田勝家の意見よりも、羽柴秀吉側の意見を通すことに成功し、この清洲会議を契機に、柴田勝家・織田信孝を追い込み、羽柴秀吉は織田家家中での実権を少しずつ付けて行ったと言えよう。これも、一種の下剋上だ。

1582年の10月15日に莫大な費用を掛けて、織田信長の大規模な葬儀を、喪主として羽柴秀勝が行っているが、羽柴秀勝は羽柴秀吉が養子として貰い受けた織田信長の子(4男)である為、事実上は羽柴秀吉が織田信長の亡き後の権力者であることを誇示する為に葬儀を行ったと言える。

この羽柴秀吉の演出に反発していた柴田勝家や織田信孝、お市、茶々、お初お江は、当然参列していないが、実は、羽柴秀吉が推していた織田信雄と、三法師も、葬儀に出たとする史料が見当たらない。
要するに、織田信長の位牌と遺品は羽柴秀吉が持ってパレードを行いつつ、織田家一門で出席したのは喪主である羽柴秀勝くらいであったことから、この葬儀により「信長の武威を受け継ぐ者は秀吉である」と世間に示すことになり、ついに羽柴秀吉は天下人への野望を現したのだ。

別途、柴田勝家は、羽柴秀吉に対抗する形で、お市の方を喪主として、織田信長の百日忌法要を行っているが、余り知られていない事実であり、羽柴秀吉が世間に示した作戦の方が上手だったのだ。

こうして、柴田勝家や織田信孝らは、羽柴秀吉のこれらの一連の行動を自らの政権樹立のためであると考え、激しく警戒し、敵意を強く抱くようになった。
翌年、1583年4月、ついに賤ヶ岳の戦いで、羽柴秀吉は柴田勝家を破り、名実共に織田家の後継者となる事を決定づけたのである。

悲劇の姫・松姫更科六兵衛 織田三十郎(織田信包)に関しても、別ページにてご紹介中。

近江・長浜城の歴史と探訪記~琵琶湖の湖畔に残る太閤井戸
前田玄以~京の街や清洲も守り抜いた三法師の守役
堀秀政~かなり有能な武将なれど注目されていないのはもったいない?
清洲城ここにあり織田信長の居城・清須城

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