小早川隆景~毛利の両川とは【戦国人物伝2】


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小早川隆景の名前は、ゲームにも登場しているので知られているとは思います。
最近の風潮としてゲームから、歴史上の人物に触れる機会が増えていますよね。私自身も「信長の野望」「戦国無双」などやっていました。

やる以前から歴史好きだったんですけどね。
さて、小早川隆景です。なぜこの人物を取り上げようと考えたのか。
以前から書きたいと考えていた人物の1人であり、智将という側面が好きで今回取り上げることにしました。

小早川隆景は、安芸国吉田荘の領主毛利元就の3男として生まれています。幼名徳寿丸。
毛利氏は先祖に大江広元がいます。鎌倉幕府の創設に協力し、領地として相模国毛利荘を領地の1つとしてもらい広元4男の季光が移り住んだのが苗字の由来です。
当時の毛利氏は3000貫の領地を持つ、小領主に過ぎませんでした。元就自身、領主になるまで不幸の連続でした。
母には5歳、父には10歳で先立たれ兄の興元が24歳で亡くなり、もらった領地も後見人に横領されてしまうという不幸っぷりです。
生涯の生き方は幼少期の体験から決まってしまいますが、元就は人間不信だったと思われます。
そこから家督を相続していくわけですが、今回は息子である小早川隆景が主役なのでこの辺にしておきます。
小早川隆景はなぜ「小早川」なのでしょうか。
分家して苗字を領地からとったり、新たに作ったりしたのでしょうか。
小早川という苗字は、養子縁組によって名乗ったものです。
元就は自分の子どもを利用して、領地を拡大させようと考えていました。
小領主の毛利氏は戦を仕掛けても、周りの領主から攻められてあっという間に滅んでしまうでしょう。
かといって、このまま何もせずにいれば他の領主に飲み込まれてしまう可能性は大いにありました。
血を流さずに、領地を増やす。小領主毛利氏の戦略としての養子縁組だったのです。
2男の元春、3男の隆景が駒として活用されたのでした。

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小早川隆景について、3つのエピソードを紹介します。

1 小早川氏へ養子縁組
2 両川と言われた元春と隆景、その確執
3 秀吉との関係

1-小早川氏へ養子縁組

そもそも小早川氏とは、どの様な家柄なのでしょうか。
平安後期から鎌倉前期にかけて活躍した、土肥実平の子遠平から小早川を称しています。
安芸国沼田荘の地頭職を与えられて、在地領主として成長していきその後承久の乱の恩賞として、竹原荘地頭職が与えられました。
この際、沼田荘を嫡流家としてそれぞれ自分の子に沼田荘、竹原荘を分けて与えています。
瀬戸内海に面した領地であり、水軍を持っていました。
さて、ここで隆景の登場となります。
この頃毛利氏は、安芸1国を支配する戦国大名へと変貌を遂げています。
西には大内氏、東には尼子氏に挟まれた安芸で次に打つ手は戦力の拡大です。
それも周りの国から不信がられないようにしなくてはなりません。
養子縁組は相当考えられた策だったでしょう。その策を助けると言いましょうか、都合のいい展開が起こっていきます。
当時竹原小早川氏の当主興景が病死したのです。家臣の中から「元就の子どもを養子にしては」という声が上がったのです。
なぜそんな声が上がったのか。それは興景の妻が元就の姪にあたり、姻戚関係があったからです。
ですが、それなら小早川の氏族から養子をもらえばいい話ではないでしょうか。
この裏には、毛利元就の周到な謀略があったと見られます。
 ここまでならよく見られる養子縁組ではあるのです。
竹原荘の小早川氏は、傍流になります。やはり本家の沼田小早川氏が欲しい。
隆景が竹原城に入った天文13年より1年前。嫡流の沼田小早川氏に悲劇が起こっていました。
当主の正平が出雲で戦死してしまっていたのです。子の繁平も、病気で失明してしまうという不運の連続です。
ここで家臣団は2つに割れます。

➀目が見えなくても周りが盛り立てて行けばいい。
➁武将は目が見えなければ務まらない。

というように。
どちらが優勢だったのかというと、➁の方が優勢でした。
周りは虎視眈々と領土の拡大を狙っています。盲目では敵に侮られてしまう。
ではここで誰の名前が上がったのでしょうか?
それは隆景でした。竹原小早川へと養子縁組で入り、この際沼田小早川の当主となってもらおうという事です。
結局隆景は沼田小早川氏を継ぎます。繁平に妹がおり、結婚をすることで。ここに鎌倉時代から分かれていた沼田・竹原小早川氏は統一されます。
特に不審な部分はないのではないか、と思われるでしょう。
しかし。ここからが謀略があったことへの傍証となります。
➀の目が見えなくても周りが盛り立てて行けばいい、と主張していた家臣団。その後粛清されているのです。
反対はしても、そこは新たな当主を盛り立てようと気運が高まると思うのですが、そうではなかったということです。
毛利氏による小早川氏乗っ取りを察知したのかもしれません。
いずれにしても、➁の家臣団は粛清されたという事実がありますので、推測としてはお家乗っ取りだったのだろうと思います。
ここに、毛利の両川小早川隆景が誕生するのです。

2-両川と言われた吉川元春と小早川隆景、その確執

毛利の両川と言われているのですから、もう一方の「川」を紹介しなければなりませんね。
小早川隆景は毛利元就の3男です。嫡男は毛利隆元、そして2男が吉川元春です。
元春は安芸の国人領主である吉川氏に養子として入りました。
小早川氏の時とは違い、当主だった興経を隠退させての強引な乗っ取りでした。
毛利氏はその後、大内氏・尼子氏を下して中国地方10カ国の大大名になっていきます。
隆景は山陽地方、元春は山陰地方を支配圏としていました。
このことは重要なことだと思います。後々隆景と元春には確執が生じます。
確執の主な原因は、秀吉の中国大返しの対応が真っ向から対立したことでした。
それ以前にも少しずつ溝は広がっていたでしょうが、秀吉への対応が溝を深めたと思います。
なぜそのようなことになったのか。
このことは2人の支配圏と関係があります。

小早川隆景の支配圏、山陽地方は瀬戸内海に面しているので情報が入りやすいのです。
逆に元春の支配圏山陰地方は、日本海には面していますが主要海路は瀬戸内海航路。自然情報は入りづらいということになります。
つまりは情報量の差で、秀吉の力量を測った結果だったということです。
隆景には情報が豊富に入り、秀吉の力量を正確に掴んでいたので和睦を表向きの理由にして追撃をしないことを主張しました。
元春は信長が死んで、ここで秀吉も倒せば毛利が天下を取れる。だから追撃をと主張しました。
しかし、元春は大事なことを忘れていたのです。
毛利元就は天下を狙ってはならないと諌めていました。
何故なら、毛利氏は謀略を多く使って勢力を広めたので心の底では信じられていない、騙されるのではないかと皆が思っている。
そんな毛利氏に天下を狙える道理はないと。
隆景は元就の子どもの中で、1番元就と近いものを受け継いでいました。
だからこそ秀吉を追撃するのはよしとしませんでした。
結局隆景の主張が受け入れられ、追撃は行われませんでしたが毛利の両川2人の確執は深まってしまったのです。

3-豊臣秀吉との関係

羽柴秀吉はその後織田家臣団を破り、自身の家臣に編入して天下へと登って行きます。
この裏には毛利氏が追撃しなかったことも要因の1つです。もし追撃していたなら、明智光秀の基盤が強固になり簡単には破れなかったでしょう。
秀吉は毛利氏、特に隆景ですが信頼を寄せます。今は毛利氏を通しての陪臣関係ですが、直臣にしたいと考えました。
それには恩賞を直接与えるのが1番だということで、四国征伐後伊予1国35万石を与えようと隆景に伝えてきたのです。
この方法は秀吉の常套手段でした。徳川家康家臣だった石川数正も、この方法で豊臣家の直臣になっています。
大名家の有力な家臣を引き離すことにもなり、弱体化も狙っての恩賞です。隆景はどうしたのでしょう。
伊予35万石は隆景の領地とはなりましたが、1度毛利氏に受け取ってもらい改めて隆景にもらえるようにしてほしいと豊臣秀吉に伝えたのです。
秀吉はその願いを聞き入れました。
その後も、毛利氏と隆景を分断しようと色々と秀吉は仕掛けてきますが、小早川隆景の毛利氏への忠誠心を崩すことはできませんでした。
だからこそ信頼し、5人の大老の一人にしていたんでしょう。

読んで下さりありがとうございました。

参考文献

「毛利元就智将の戦略・戦術」 小和田哲男
「毛利元就と戦国武将たち」 古川薫
「毛利元就とその時代」 古川薫

(寄稿)nao

小早川隆景【詳細版】~毛利家大きく支えた智将
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名前 nao
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歴史好きな三十路です。好きな作家は北方謙三さん、高田崇史さん、井沢元彦さんなど多数います。

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