児玉就英とは 毛利水軍を率いた智将

児玉就英(こだま-なりひで)は、戦国時代の1554年に安芸・草津城主である児玉就方の子として生まれました。
父である児玉就方(こだま-なりかた)は、武勇ある武将で、毛利元就の家臣に加わると、1551年から安芸・草津城主として川内水軍衆の統率を任されていました。

児玉就英は、1569年、尼子再興軍の尼子勝久・山中幸盛らが出雲へ乱入した際、父と共に毛利水軍を率いて出陣し、日本海側で戦っており、1570年の尼子氏討伐でも出撃したと考えられます。
このように、父と共に毛利家の戦(いくさ)の大半に出陣し、1576年の第1次木津川口の戦いにも参戦しました。
この時は、毛利家の大将である乃美宗勝、井上春忠、村上吉充、香川広景らと毛利水軍主力を率いています。
焙烙玉などを駆使した戦術にて、九鬼嘉隆の織田水軍を壊滅させる功績を挙げています。
そして、石山本願寺へ兵糧を入れるのに成功しました。


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1578年に児玉就英は淡路・岩屋城に入り、淡路周辺の瀬戸内海の守備を担当するようになります。
同じ、1578年に山中鹿之助(山中幸盛)が毛利家によって暗殺されると、山中鹿之助の娘・盛江(八重姫)(14歳)を、児玉就方や児玉就英は引き取って養育し、嫁に出したようです。

毛利輝元豊臣秀吉に臣従したあとも、父・児玉就方と共に毛利水軍を率いて、1585年、紀伊・雑賀攻めなどに参加しています。

1586年に父・児玉就方が死去すると、家督を継いで安芸・草津城主となりました。

毛利家は、1589年から広島城の築城を開始します。
そして、毛利輝元は、児玉就英に別の領地を与えて、草津を広島の外港として利用しようと考えましたが、児玉就英は草津から去ることを拒んでいます。
しかし、小早川隆景、穂田元清、渡辺長、安国寺恵瓊らも説得に動いたため、やむなく草津を明け渡しています。

児玉就英の没年は、1596年6月11日となります。享年53。


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ちなみに、和田竜さんの「村上海賊の娘」と言う歴史小説(フィクション)において、児玉就英はイケメンであり、主人公・村上景が惚れると言う設定になっています。

更にちなみにですが、日露戦争にて指揮をとった陸軍大将・児玉源太郎は、この児玉氏の子孫です。

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