小宮山友晴~最後まで武田勝頼に貫いた忠義

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 小宮山友晴(小宮山内膳友晴)は松井田城代・小宮山昌友の子。

 父・小宮山昌友は、武田信玄の家臣・侍大将として、信濃の諏訪城代、上野・松井田城代を務めたが、1572年10月の遠江二俣城攻めで戦死。

 その為、小宮山家の家督は長男だった小宮山友晴が継いで侍大将となった。

 この小宮山友晴は使番十二人衆のひとりでもあったが、上役でもズバズバと思った事を言う性格が災いして、武田勝頼の側近である跡部勝資、長坂光堅、秋山摂津守、小山田彦三郎らと仲が悪く、長篠の戦いで敵前逃亡した武田信廉など武田一族衆に対しても厳しい態度で臨んだ。
 その為、長坂光堅の讒言もあり、やがて主君・武田勝頼から蟄居を命じられた。

 1582年、織田信長の武田攻めが始まると、武田家一族の穴山梅雪木曾義昌が寝返り、武田信廉や武田信豊は一戦も弓を交えず逃亡。
 家臣の多くが逃亡した武田勝頼は、僅か50名そこそこで、逃亡していたがついに敵に捕捉され、全滅は免れない状況となった。


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 敵が包囲する中、蟄居中の小宮山友晴は、主君の一大事と、母と妻、そして弟・小宮山昌親(小宮山又七)と共に、3月11日の朝、なんとか天目山にて武田勝頼一行を見つけ出し、土屋昌恒と秋山光綱(秋山紀伊守)にお供を願い出た。

 「押し籠めを破って馳せつけて参りましたが、われらが押し籠められましたのは、勝頓公のおめがねによってのこと。われらが最後のお供すると申しあげると、御主のおめがね違いになります。しかし、お供しなければ侍の道理に背きまする。われらはなにがなんでも、たってお供をしたいと思っております。」
 既に武田恩顧の重臣らが逃亡した中、土屋昌恒と秋山光綱は、この小宮山友晴の勇気ある行動と忠義に免じて、すぐさま武田勝頼に進言し閉門を解いた。

 「譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めぬのは末代までの恥辱」であり、「御盾となり高思の万分の一にも報いたい」と忠節を貫く小宮山友晴に、武田勝頼も当然感動した事であろう。
 こんな忠義の士を蟄居させていたのは、誤りだったと感じ、その忠節に少しでも報いようと思ったのか、武田勝頼は、弟・小宮山昌親に母・妻を連れて落ち延びるように命じた。

 このように生き残った者がいた為、小宮山友晴の忠義の話や、土屋昌恒の千人切りの武勇、そして武田家の家宝が塩山方面などの寺に現存することになったのであろう。

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 その日のうちに最後の決戦「鳥居畑の戦い」となり、衆寡敵せず小宮山友晴は鳥居畑で討死を遂げた。
 そして、武田勝頼らは田野で自刃したのだ。

 弟・小宮山昌親は、のち徳川家康に見いだされ、徳川家の家臣に加わっている。
 末弟の小宮山忠道は、長篠の戦で戦死した叔父・小宮山忠房の後を継ぎ、武田氏滅亡後は巨摩郡村山西割村に居住した。

 一族の小宮山忠孝(小宮山弾正介)は、武蔵国の足利郡箕田郷に居住していたようで、主家・武田家滅亡に、忍城主・成田氏の旗下として足立郡戸塚を領地とし戸塚城主として石高500石(200貫の知行)となったようだ。

 石田三成の忍城攻めでは、小宮山一族が武将として成田家の籠城に加わっている。
 成田家改易後は、忍城下の持田郷にて帰農し「小宮」と称したようだ。

 一方、小宮山友晴には、小宮山織部、小宮山道昌(小宮山道政)、小宮山清路の3人の男子がいたとされ、長男の小宮山織部(小宮山忠左衛門)は豊臣秀吉の命により甲府藩主となった浅野長政に仕え、小宮山織部の子・小宮山忠右衛門は、浅野長晟について広島に移住している。
 この子孫には、後に水戸藩に仕え「大日本史」編集に参与した小宮山桂軒がおり、代々、水戸の彰考館・弘道館の史学者と名が見受けられる。

 次男の小宮山道昌(小宮山伊左衛門道政)の子孫は、代々甲府の長松寺町に在住した。

 三男の小宮山清路(小宮山友晴の末弟・小宮山昌親本人とする説もあり)は、子孫が山梨の竜王(甲斐市)に在住し、1607年には甲府代官に仕えている。

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