熊本城の復興を願って 熊本城の歴史と見どころ~肥後国人一揆と城親基とは(熊本地震の被害も)


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熊本城(くまもとじょう)は、標高38mの茶臼山にある梯郭式平山城です。
別名としては千葉城、隈本城、銀杏城(ぎんなんじょう)とも呼ばれます。
このページでは、2016年の熊本地震以降の熊本城の破損状況などを写真でも触れながら、熊本城に関して詳しく記載したいと存じます。

熊本城の最初の築城年は定かではありませんが、応仁・文明年間(1467年~1486年)に菊池氏一族の出田秀信が、茶臼山に城を築き、千葉城と呼ばれたと伝わります。

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下記の写真が千葉城跡となる場所です。

現在の熊本城の東に流れる坪井川が天然の堀の役目を果たしていたようです。

その後、大永・享録年間(1521年~1531年)になって、現在の熊本城南隅にある古城址(現在の古城町)に、鹿子木親員が改築したのが隈本城の始まりと言われています。
古城跡は現在、古城堀端公園がある付近となり、千葉城からはまただいぶ南に位置します。

このように、最初は小さな城でしたが、立ち替わり入った領主によって、改修・拡大されて行ったのが熊本城(隈本城)となります。
※なお、各写真はパソコンでクリックすると拡大致します。

ここでお断りさせて頂きますが、掲載させて頂いております熊本城の各写真は、2016年の熊本地震の約8ヶ月後に撮影させて頂いたものとなります。
そのため、石垣や塀など崩れている写真が多数含まれます事、ご容赦願います。

1536年、菊池義武に臣従していた隈本城主・鹿子木鎮有は大友義鎮に隈本城を追われ、代わりに大友勢の城親冬(城親賢)が隈本に入っています。

1550年(天文19年)、豊後守護の大友義鑑が、津久見美作守・田口鑑親ら家臣の謀反により殺害される二階崩れの変が起こります。
大友義鑑と対立していた菊池義武は、鹿子木親員、田島重賢らの支援を受けて隈本城に入って旧地を奪還しました。
しかし、大友義鎮(大友宗麟)が大軍を派遣したため隈本城は落城し、菊池義武は相良晴広を頼って敗走。
この時、菊地家の重臣・鹿子木鎮有も熊本を追われ、大友義鎮は、隈府城に赤星親家、隈本城に城親冬(じょう-ちかふゆ)を配しました。

1558年に城親冬が隠居すると、家督を継いだ城親賢(じょう-ちかかた)が熊本城主となっています。
この城親賢は、隈本・岳林寺を再建するなど、荒れ果てた熊本の整備を進めており、領民には植樹を奨励しています。
そして、京より庭師を招くと「植木市」を興行するなどして産業育成を図りました。

1578年、耳川の戦いで大友宗麟が島津義久に大敗すると、肥後への影響力が変わり、1579年、城親賢は宇土城主・名和顕孝らとともに島津家に臣従しています。

その後、城親賢は島津勢として、1580年には甲斐宗運と戦うも敗退。
1582年には、佐賀城主・龍造寺隆信の肥後侵攻を許して、龍造寺家に降伏すると、まもなく病没したと言います。
下記は飯田丸の五階櫓です。

その後、1582年に城親賢の嫡男・城久基(じょう-ひさもと)が家督を継ぎますが、まだ幼かったようで、叔父・城親基(出田一要、城親冬の子)が補佐しています。
この城親基(じょう-ちかもと)は、時勢を読む事に優れた武将で、龍造寺軍を破って島津家に接近しています。
そして、1587年(天正15年)に、豊臣秀吉の九州攻め(九州征伐)が始まりまると、島津家を見限り、豊臣家に従った熊本城を明け渡しました。
1587年4月14日に豊臣秀吉が熊本城に入ると、城久基と城親基は熊本城を明け渡して、大阪城に出仕していますが所領8000石は安堵されています。

そして、6月に佐々成政が肥後一国を与えられて、熊本城に入りました。
これにより、52人の肥後国人は所領を安堵されるものの、肥後を拝領した佐々成政の家臣団に組み込まれました。
下記は2016年熊本地震で1本石垣となった飯田櫓です。

佐々成政はさっそく太閤検地を始めますが、もともと、豊臣家の直臣になったつもりの国人らは、佐々成政の家臣になることを嫌い反発します。

こうして、国人の不満が一挙に爆発し「肥後国人一揆」(ひごこくじんいっき)となりました。

肥後国人一揆

1587年7月10日、隈府城主である隈部親永・隈部親泰の親子が、秀吉の朱印状を盾に検地を拒否して挙兵します。
佐々成政は7000にて隈府親永が籠城した隈府城を攻撃して落城させますが、隈府親永は隈府親泰が籠る城村城へ逃亡しました。
そのため、佐々成政は城村城も包囲しますが、守りが堅く手こずっている間に、隈府親永は甲斐親英と国人らに呼びかけて、和仁親実・菊池武国ら一揆軍は35000にて、隈本城(熊本城)を攻撃しました。

佐々成政は急いで隈本城に戻って取り返していますが、甥・佐々成能が内古閑鎮房に討たれるなど、に多くの家臣が討死したため、豊臣秀吉に援軍要請を行いました。

そのため、9月に立花宗茂と高橋直次の兄弟が柳川城から1200で出陣して佐々成政を救援。
その他、小早川秀包を総大将として、立花宗茂、高橋直次、筑紫広門、鍋島直茂安国寺恵瓊黒田官兵衛らの九州の諸大名や、戸田勝隆、福島正則、生駒親正、蜂須賀家政ら四国の大名まで動員し、豊臣勢は一揆鎮圧を目指しました。

最後まで抵抗したのは和仁親実(わに-ちかざね)の肥後・田中城となります。
田中城では弟の和仁親範・和仁親宗・妹婿の辺春親行ら900が籠城し約2ヶ月抵抗を続けていましたが、小早川秀包・安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門ら10000に包囲されます。
そして、安国寺恵瓊の調略に応じた家臣の裏切りもあり、小早川勢の撫で斬りで田中城は落城し、和仁氏は滅亡しています。
こうして激戦の末に田中城が落ちたことで、一揆は鎮圧されました。
下記は熊本城の宇土櫓です。

なお、かつて熊本城主だった城久基と、補佐の城親基は、大阪に出仕していたため、国人一揆に加わっておらず、失領は免れていますが、筑後・石垣山に転封となっています。
ちなみに名和顕孝も許されて筑後に移り、代わりに

1588年、城久基が病没すると嫡子がいなかったため、出田一要が城家の家督を相続し城親基と復姓しますが、1593年、城親基も病没し、城家は断絶となりました。

ただし、城久基の弟である城武房が、城親基の養子となっており、その後は肥後・加藤家に仕え、加藤家改易後には細川家の藩士となっており、肥後出田氏として続いています。

なお、国人一揆を自力で鎮められなかった佐々成政は、1588年閏5月14日に摂津・尼崎の法園寺にて切腹となりました。

こうして、加藤清正が肥後の北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った訳です。

長野鎮展、原田信種、草野鎮永らが加藤清正の与力として肥後へ入っています。

なお、肥後の南半分にあたる宇土・益城・八代三郡の約20万石には小西行長に与えられ宇土古城に入りました。

熊本に入った加藤清正は1591年頃から熊本城の大改修を始めています。

千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯を城郭とする大規模なもので、関ヶ原の戦いがあった1600年(慶長5年)頃に天守が完成したと言います。
当時の天守は、連結式望楼型3重6階地下1階と壮大なものです。

関ヶ原では徳川家康に味方し、肥後一国52万石の領主となった加藤清正は引き続き隈本城の工事を勧め、完成したのは1606年(慶長11年)でした。
翌年の1607年には「隈本」の地名を「熊本」と改めています。

ただし、熊本城では1610年(慶長15年)から、また工事が始まり、南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で「本丸御殿」が造営されました。
このため、構造的には天守に上がる場合、本丸御殿の下にある「地下通路」を通るような形になっています。
ただし、豪華な本丸御殿を築いたのは、徳川家康が権力を強めたため、大阪城にいる豊臣秀頼を熊本城に迎えても大丈夫なようにとの考えがあった可能性も指摘されています。

そんな加藤清正も急死し、あとを継いだ加藤忠広は1632年に改易されてしまいます。
そして、新たな熊本城主となったのは豊前・小倉城主の細川忠利で、肥後54万石となりました。

このとき細川忠利は、天守に上ると加藤清正を祀る廟所「本妙寺」の方角に向かって頭を下げたと伝わります。

なお、細川家が熊本城に入ったときには、熊本城も7年前の熊本地震によって結構荒れていたり、本丸と二の丸の一部以外は、建物も無かったようで、徳川幕府に熊本城の改修を願い出ています。
細川忠利は熊本城の長塀の南にある坪井川を渡った先に花畑屋敷を造営し、歴代藩主の居所としました。
ちなみに、父・細川忠興は隠居所として八代城に住んでいます。

明治10年、西南戦争の際には、西郷隆盛ら薩軍14000が、熊本城で抵抗した政府軍4000を攻撃しています。
この時、熊本城の大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門が焼失しました。

加藤清正が築いた「武者返し」と呼ばれる曲線の石垣が功を奏して、西郷隆盛らは一歩も熊本城に入る事はできませんでした。

その後、太平洋戦争の際には、熊本は空襲を受けていますが、熊本城の被害はあまりなく、宇土櫓などの現存する櫓・城門・塀13棟は国の重要文化財に指定されています。

下記は旧細川刑部邸ですが、同様に見学はできない状態でした。

旧細川刑部邸は、熊本藩主・細川忠利の弟である細川興孝が刑部家を起こしたことから始まります。

加藤神社

今回、唯一と言って良い立入が許可されている場所である加藤神社(かとうじんじゃ)をお参りさせて頂きました。
加藤清正公を主祭神とした神社で、熊本城の平左衛門丸にあります。

もともとは、加藤清正が亡くなったのに伴って建立された浄地廟となっていました。
下記のように加藤清正の旗立石も境内にあります。

西南戦争の際に社殿は焼失するなどを経て、現在の建物は昭和37年にここ新しく造営されたものとなります。
下記は加藤神社から見える熊本城の天守(連結式望楼型3重6階)です。

天守も屋根などは被害を受けています。

2016年熊本地震

2016年、花粉症の季節が終わったら熊本城を訪問しようと思っていた矢先に、熊本地震が発生し熊本城も大きな被害を受けました。

地震被害の甚大さを受けて、東日本大震災同様に熊本県と熊本城にそれぞれご寄付もさせて頂いておりましたが、その後、熊本に行くのは躊躇しておりました。
下記は熊本城の未申櫓ですが、このあたり美しい曲線だった石垣も大きく崩れてしまっています。

しかし、行く事での熊本の復興・再興と言う願いも込めて、2016年の総決算として12月のクリスマス直前に訪問させて頂きました。
下記は熊本城の戌亥櫓です。

25年前に見た熊本城は城域が「広いな~」と言うのが一番印象に残っています。
このように崩落個所もたくさんあり、まだキケンと言う事で、見学できる場所も非常に限られている状態と言うのを承知で、熊本城を訪れましたが、やはりこのような姿を目の当たりにして、かなりショックを受けました。

私も、復興城主としては失礼ですが、地震直後に寄付もさせて頂き、一口城主として城主手形・熊本城主のカードも賜っております。
桜の馬場・城彩苑などはにぎをっていますが、熊本城の復旧工事もまだ始まったばかりですので、完全にすべて見学できるようになるまで、私がこの世にいるか?疑問はございます。
しかし、完全復活を遂げた際には、是非、再訪してみたいと存じております。

熊本城の復興も大切ですが、何より熊本や大分で被害を受けている皆様の復興が先決でございます。
改めまして、一日も早く普段の生活に戻れますよう、謹んでお祈りさせて頂く次第です。

熊本城へのアクセス・行き方、駐車場などは、下記のオリジナルGoogleマップの「熊本」をご参考願えますと幸いです。
ご覧いただきまして、誠にありがとうございました。

熊本地震災害のお見舞いを申し上げます(熊本県と熊本城主寄付金)
当方オリジナルGogoleマップ (熊本や人吉を含む)
甲斐宗運と御船城~阿蘇氏を忠実に守り抜いた生涯不敗の軍師で名将
合志親為(合志親賢)と合志城~竹迫城の攻防戦と合志家の命運
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