久能山城と板垣信安・今福浄閑斎【久能山東照宮と徳川家康の墓】


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静岡久能山城は、もともと「久能寺」があった場所でした。
西暦600年頃に久能忠仁が久能山麓に久能寺を建立したのが始まりとされます。

1568年、武田信玄が駿府へ進出し、今川氏真掛川城へ追いやると、久能寺を矢部(静岡市清水区)に移して(鉄舟寺)て、この要害の地(標高291m)に久能城を築きました。比高は150mです。

岩殿城(山梨県)、岩櫃城(群馬県)と共に、武田の「三名城」とも言われる久能山城の最初の城主は板垣信安(いたがき-のぶやす)です。

板垣信安

板垣信安(於曾信安)は於曾源八郎の子として生まれましたが、母は板垣信方の娘です。
板垣信方が1548年の上田原の戦いで討死すると、嫡子・板垣信憲が家督を継いで諏訪城主となっていましたが、父と異なり有能では無く、1552年に武田信玄が従来の不行跡を理由に板垣家を閉門し、1557年に断絶させます。
そのため、1558年に於曾信安が板垣家の名跡を継ぎ、板垣信安(いたがき-のぶやす)となって武田親族衆として120騎を率いました。

そして、1569年から最初の久能山城主となっていますが、1571年には今福浄閑斎と今福丹波守友久が久能山城主となりました。

ちなみに、板垣信安は田中城主になったようですが、、長篠の戦い内藤昌豊が討死すると、武田勝頼の命で箕輪城主となったともあります。
ただし、1575年の長篠の戦いにて討死した可能性もあります。
なお、子の板垣修理亮は真田昌幸に仕えて、1585年の上田城の戦いでも奮戦したことが記録にあります。

今福長閑斎(今福浄閑斎)

1571年、板垣信安の後任として、今福友清(今福浄閑斎)と子である今福虎孝(今福丹後守虎孝)・今福友久(今福丹波守友久)が久能山城主として兵350、馬上40騎にて守備しました。

今福友清(いまふく-ともきよ)は、武田一族の譜代家老衆で、狩谷原城主であったとされますが、戦歴など詳しい事は不明です。
なお、出家したあとは公事奉行を務めたとされます。

今福友清(今福浄閑斎)の嫡男は今福虎孝(今福丹後守虎孝)で、次男は今福友久(今福丹波守友久)です。

1573年、今福浄閑斎は遠江・諏訪原城の城番を命ぜられましたが、武田勝頼が長篠の戦いに敗れた後、1576年に徳川家康が諏訪原城を攻め落とした際に討死したとも、1581年に病没したともされています。
ただし、諏訪原城には今福友清の墓があります。

また、今福丹波守は久能山城に退却したとの記述も見られ、父・今福友清(今福浄閑斎)、嫡男・今福虎孝(今福丹後守虎孝)、次男・今福友久(今福丹波守友久)が久能山城と諏訪原城で混同されているようで、とてもややこしく、動向や生死がよくわかりません。

くわえて、最近では今福長閑斎が正しく、今福浄閑斎と言う記述は誤りだとされています。

織田信長の甲斐攻めの際である1582年2月27日に、徳川家康が持舟城を落とすと、久能山城も徳川勢に包囲され3男・今福昌和が討死しています。
また、久能山城の麓に今福虎孝(今福丹後守虎孝)の墓がありますので、討死した可能性があります。

そのため、今福友久(今福丹波守友久)は開城して甲斐へと逃れたとも、自刃したともされます。
なお、生き残った養子の今福昌常と孫・今福友直は徳川家に仕えました。

諏訪原城(諏訪之原城、牧野城)の歴史と諏訪原城の戦いもどうぞ

その後、久能山城には1583年に松平勝俊(松平源三郎勝俊、久松俊勝の子)が城主となりますが、1590年、徳川家康の関東移封によって、中村一氏が駿府城主となると、家臣の松下吉綱が久能山城主となりました。

関ヶ原の戦いあとの1601年には、大久保弥一郎忠政が久能山城主となり、1606年以降は、榊原清政・榊原照久の父子が在城。

1616年4月17日に徳川家康が駿府城にて没する、遺言により久能山城は廃城となって愛宕曲輪に埋葬されました。

1617年には、徳川秀忠によって久能山東照宮の社殿が造営され、日光東照宮も造営開始されます。
大工棟梁は中井正清で、約1年7ヶ月の工期でした。

栃木県の日光東照宮は3代将軍・徳川家光により「寛永の大造替」が施され、徳川家康を祀る現在の姿になっていますが、徳川家光は久能山の整備も命じており、社殿以外の透塀、薬師堂(現・日枝神社)、神楽殿、鐘楼(現・鼓楼)、五重塔(明治に破却)、楼門が増築されたと言います。

なお、久能山総門番として代々久能山東照宮を管理したのは、交代寄合の榊原家宗家です。

久能山東照宮

さて、それでは久能山城をご紹介したいと存じます。
久能山城は、上記でご紹介致しましたとおり、現在は徳川家康の墓がある久能山東照宮となっております。

上記の一の門は、古くは久能山の総門だったそうです。
海側の参道から階段を1100段以上登って来るとあります。

上記は、一の門を入ったところにある「門衛所」です。
江戸時代に久能山の門を守る与力が詰めていた番所で、ここで登拝者を検問しました。

ここは海側の展望も素晴らしいです。
各写真はクリックすると拡大します。

番所を抜けていくと、曲輪があり「勘介井戸」があります。
山本勘介が掘ったといわれる、深さ33mの石垣積み井戸ですが、武田信玄が久能山城の築城をする8年前に、既に山本勘助は討死したとされていますので、どうして勘助井戸と言う名になったのか?疑問点は残ります。

上記は楼門(ろうもん)です。
写真撮影するには、人が少ない開門時間に行くのが一番です。

上記は唐門の手前から撮影した風景です。
なかなか幻想的な雰囲気になって参りました。

パワースポットもありましたよ。

国宝の社殿(本殿・石ノ間・拝殿)です。
さすが、日光東照宮同様に彫刻も素晴らしく、色彩も豊かですね。

最近、修復したそうでして、とてもキレイです。

廟門から御神廟までの参道です。
左右には徳川家康公に仕えた武将らが奉納した石灯籠があります。

上記は、徳川家康公の遺骸が埋葬された廟です。
最初、埋葬されたときは小さな祠だけだったそうです。

徳川家光公が、高さ5.5m、まわり8mの石塔が建て、家康公の遺命に従い、西を向いています。

片隅には、徳川家康の愛馬の墓がありました。
武将の愛馬の墓まで一緒にあるのは、大変珍しいですね。

久能山への行き方やその他の写真などは下記のページにて別途詳しくご紹介させて頂いておりますので、あわせてご高覧賜りますと幸いです。

久能山東照寺の訪問記・駐車場情報など
松平康俊と於大の方【徳川家康の母】の運命
井伊直虎ゆかりの地を楽しく観光~お勧めスポットベスト10【おんな城主・直虎】

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