大村純忠と大村喜前とは~玖島城(大村城)の見事な石垣も


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玖島城(くしまじょう)は大村城とも言う連郭式平山城だが、大村湾に突き出ているので、海城と言っても良いです。

最初に築城したのは大村藩・初代藩主となる大村喜前(おおむら-よしあき)です。
大村喜前は三城城主・大村純忠の長男として1569年に生まれました。初名は大村喜純、通称は大村新八郎です。
父は日野江城有馬晴信は甥にあたる大村純忠で、母は正室である西郷純久の娘・おえんとなります。

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1574年から、大村家は松浦隆信に屈服し傘下に入りました。
なお、父・大村純忠は日本初のキリシタン大名として知られます。

1587年3月、豊臣秀吉の九州攻めの際、病床の父・大村純忠は豊臣家に臣従します。
そして、父の代理として19歳の大村喜前が大村勢を率いて出陣しました。

父・大村純忠が1587年5月18日に坂口の居館(坂口館)にて死去すると、大村喜前が家督を継ぎました。

大村喜前の正室は有馬義純の娘で、1592年に嫡男・大村純頼(おおむら-すみより)が生れています。

1592年、朝鮮攻めの文禄・慶長の役でも名護屋城から渡航しました。
なお、大村喜前もドン・サンチョの洗礼名を受けたキリシタンでしたが、バテレン追放令のあとは領内から宣教師を追放し禁制を布いています。

1599年には豊臣姓を下賜されており、前年から築城開始していた玖島城に入っています。

1600年、関ヶ原の戦いでは、唐津城にいた松浦鎮信から呼び出されて、島原領主・有馬晴信、五島領主・五島玄雅と肥前4将で神集島に集まり、東西どちらに付くか協議したと言われます。
その結果、大村喜前も徳川家康に味方し、小西行長宇土城を攻め、約28000石の所領を安堵されました。

加藤清正の薦めもあったなど諸説ありますが、1602年にはキリスト教を捨てて棄教し、日蓮宗に改宗しました。
恐らくは悩み苦しんだうえでの苦渋の決断であったことと察します。

そして、妹・松東院(松浦久信の正室)や子の大村純頼の反対を押し切り、キリシタンへの厳しい弾圧を始めたています。

大村喜前は早くから跡取りの大村純頼と「共同政治」を行なっており、1607年には、徳川家康の許しを得て、一門の領地没収を行いました。
これは長崎の南蛮貿易利権を失っていたこともあり、財政が厳しかったことから「御一門払い」を行ったものとなります。
庶家15家の所領8000石を没収し、藩主の財政力を強化すると同時に権力強化も計りました。

1614年、大坂の陣では、子の大村純頼が徳川勢として、長崎の警備、豊臣氏残党の捕縛をしました。
また、禁教令を出していた徳川幕府は、1614年に本多正純を大村藩に派遣し、キリスト教対策の状況を確認しており、大村喜前が説明役を務めています。

1616年8月8日、大村喜前は死去しました。享年48歳。
これは、迫害を恨んだキリスト教徒によって毒殺された可能性が非常に高いです。

そして、家督を継いだ大村純頼も引き続きキリスト教を弾圧しました。
この大村純頼も、僅か3年後となる1619年11月13日、玖島城で急死しました。享年28。
あまりの突然死であるため、父同様に毒殺されたと言われています。

跡継ぎの大村純信(おおむら-すみのぶ)はこの時まだ2歳で、改易の危機となりましたが、家臣らの奔走で襲封が認められ、1620年に第3代藩主となりました。

その大村藩が幕末まで、約270年間居城としたのが、玖島城です。

玖島城

三城城では鉄砲や大砲で攻撃を受けると不利であったため、1598年より玖島城を築城し、城下町も移転させました。
大村喜前が朝鮮出兵の際に籠城した順天城(ジュンテンジョウ)が海に面していて、3倍以上の大軍に囲まれても守りやすかった経験がありました。
そのため、三方を海に囲まれた要害の地玖島(くしま)が選ばれましたと言います。

南堀に面した石垣は、打ち込み接ぎと呼ばれる工法にて、石の角や面を加工し、高く反り返った石垣は、美しい扇の勾配になっています。
そのため、その石垣の上に建つ「板敷櫓」の姿も、凛々しく見えます。
この大変美しい勾配を見れば、加藤清正が思い浮んできますね。

当初は北側を大手にし、石垣は自然石を使用した野面積みの方法で築かれています。

その後、加藤清正の指南を受けて、1614年に大改修しています。
最初北側にあった大手は、南側に移しました。
かなり難攻不落の名城と言えるでしょう。
下記は大手門脇の小さな埋門(穴門)です。

この石垣のトンネルのような埋門は、今にも石が落ちそうな雰囲気です。

本丸方面に登って行きましょう。

ここから本丸に上がって行く虎口や桝形は見事としか言いようがありません。

玖島城(大村城)はこれだけ立派な防御態勢を構築していますが、本丸には天守はおろか、櫓もぜんぜん配置されなかったようです。
一風変わっているようにも思えますが、27000石ですので、身分相応としたのでしょうから堅実的です。

ただし、矢狭間121個、鉄砲狭間123個、石火矢狭間(大砲用)が6門と防御力は重視されています。
下記は本丸直下の石垣です。

台所門から本丸に入ってみました。

現在の本丸跡は大村神社の境内になっています。
大村神社は大村氏歴代を祀ります。

なお、大村城の本丸には天守はなく、屋敷だったようです。

本丸には大村喜前の遺徳碑や最後の藩主・大村純熈の像があります。

大村純熈の像です。

玖島城(大村城)本丸の遺構も良く残っています。

下記は大村彦右衛門純勝の碑です。
大村純勝は大村純忠から大村喜前など4代の藩主に仕えた家老です。

1619年に、2代藩主・大村純頼が急死し、大村藩が取り潰しの危機になった際に、江戸にて老中らと折衝したのが大村純勝で、そられの功績が称えられています。
下記は貝吹石です。
大きな穴の右にある小さい方を吹くと、ほら貝と同じように音が鳴ると言います。

広さも結構あり、なかなか素晴らしい玖島城(大村城)本丸でした。

下記は虎口門跡の桝形です。
この造り、惚れ惚れしますね。

二の丸跡もありました。

下記は玖島城本丸の西側下石垣です。

玖島城(大村城)の南を流れる川沿いを大村湾側に進みます。

なお、玖島城の北側は遠浅になっており、敵が浅瀬を渡る事ができたので、海中に「捨堀」があったと言います。
現在は埋め立てられていますが、この海中捨堀は、恐らく玖島城だけにあった防御理論です。

下記は大村城の西側海辺にある大村藩お船蔵跡(県指定史跡)です。

ある程度大きな船でも停泊できるようになっています。

その北側には大村氏の別邸・梶山御殿が残っています。

現在は大村市所有で「大村市教育の館」として教育施設として使用されていますが、内部の見学は自由です。

下記は島の先端となる玖島崎です。

春には桜、他の季節でもつつじ・花しょうぶが咲き競う大村公園として整備されています。

さて、玖島城(大村城)への行き方・アクセスですが、JR大村線の大村駅から徒歩10分となります。
城を訪問するにも、駐車場に困る事がある反面、ここ玖島城では無料駐車場があちこちに点在していて、とても訪問しやすい城です。
大村公園入口の南側や、板敷櫓の下、本丸脇である大村神社参拝社用の駐車場などがあります。
今回は下記の一番大きな駐車場に止めさせて頂きました。

玖島城の観光所要時間は約50分といったところでしたが、じっくり見る場合にはもっと時間が必要です。

下記はオマケですが、城下町となる草場小路(くさばこうじ)にある武家屋敷の五色塀です。
旧円融寺庭園の近くになります。

念の為、五色塀がある場所を地図でも示しておきますね。

以上、長崎空港からもほど近い玖島城でしたが、このあとは時間があったので、三城城へ向かいました。

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