松平直基~書写山と最乗寺にある松平直基の墓所

松平直基(まつだいら-なおもと)(結城直基)は、1604年3月25日に、徳川家康の次男・結城秀康の5男として誕生しました。
母は側室である三好長虎の娘(品量院)です。

徳川家康に懇願した祖父・結城晴朝は結城家を継がせようと考えたようで、結城直基は幼少の折から越前にて養育されたようですが、父・結城秀康は1607年に享年34で死去しています。

この時、結城秀康の遺言により、結城家の家督は結城直基が継いで、越前勝山藩3万石の藩主となり勝山城に入りました。


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1614年7月20日に祖父・結城晴朝が死去すると、その隠居料5000石を相続します。

兄・松平忠直は1615年の大阪夏の陣で、真田信繁(真田幸村)らを討ち取る活躍をしています。

1626年から結城直基は松平姓を称するようになりますが、家紋は結城家の(結城巴・太閤桐)を継続して使用し、結城家の祭祀も継承しました。
実兄である越前国主・松平忠直より偏諱を受けて、松平直基と改名しています。

1635年、松本藩主になった兄・松平直政に変わって、越前・大野藩5万石となります。
そして、1644年には山形藩15万石となると、郷村支配のために有力者を登用して大庄屋制を定めています。

1648年6月14日には、姫路藩15万石への転身を命じられ、その後の山形藩には奥平信昌と徳川家康の長女・亀姫との間に生まれた、4男松平忠明の子である松平忠弘が入部しています。

しかし、松平直基(松平大和守直基)は山形城から姫路城に向かう途中、江戸で発病し1648年8月15日に死去しました。享年45です。

父の死去により5歳の松平直矩(まつだいら-なおのり)が家督を継ぎますが、姫路城は西国の抑えの要所であることから、幼い藩主では不適格とされ、1649年6月9日に越後村上藩に国替えとなりましたが、のち1667年8月19日に姫路藩に復帰しています。

松平直基の菩提は最乗寺(神奈川県南足柄市大雄町)に分骨されていますが、赴任地であった姫路の書写山圓教寺に、子の松平直矩が1670年に分骨し、松平直基の立派な墓所が建立されました。

書写山・松平家墓所

上記写真は、姫路・書写山にある松平家墓所である松平直基の墓です。
書写山・鐘楼の下の方にありました。
ちょっと場所がわかりにくいので、地図を載せておきます。
地図は縮尺を変えて、ご覧願います。

下記の写真は、相模・大雄山最乗寺にある松平直基の墓所です。
開山堂隣の鐘楼の脇にあります。

松平直基の墓

その他の書写山円教寺や大雄山最乗寺への行き方・駐車場情報などに関しては下記の別ページも、あわせてご覧頂けますと幸いです。

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