伊達政宗~5年で114万石にした独眼竜政宗のすごいところ


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5歳の時に疱瘡に掛かり、一命は取り留めるものの右目を失った梵天丸。
米沢にて虎哉和尚や片倉景綱に鍛えられた伊達政宗は、1579年、13歳の時に三春城主・田村清顕の娘である愛姫(12歳)を正室に迎え、父・伊達輝宗と共に出陣し経験を重ねた。
父は政略結婚による近隣諸国との協調路線を取り奥州を安定させた。
そして、伊達政宗の器量を見抜くと、伊達輝宗は早くも42歳のときである1584年10月に隠居する。
家督を継いだ伊達政宗は以後、父が築いた安定路線を自ら破棄し、積極的な領土拡大策を取る。
豊臣秀吉が、徳川家康との小牧・長久手の戦いに敗れて、和睦しようかとしていた時期の話である。

小手森城の戦い

1585年5月、伊達政宗は蘆名盛隆が昨年死去し、彦姫が切り盛りする事になり弱体化した蘆名家を攻めたが敗北し、苦い初戦となった。
そして、伊達家の傘下であった小浜城主・大内定綱が、田村清顕から脱却しようとして蘆名家に通じると、1585年8月27日、伊達政宗は田村清顕に加担して、大内定綱の親族である菊池顕綱の小手森城を総攻撃した。
この時、伊達政宗は自ら最前線で指揮を取り、鉄砲8000にて激しい攻撃を加えたとされ、城兵500人全員を討ち取っただけでなく、女・子供、犬に至るまで全て撫で斬りにしたとされる。
「小手森城の撫で斬り」として伊達政宗の名は周辺諸国に知れ渡り、大内定綱は小浜城を放棄して二本松城に逃亡。
伊達政宗は小浜城に入り、二本松城主・畠山義継(二本松義継)も攻撃を開始した。
すると畠山義継は降伏したが、伊達政宗は許さない。
父・伊達輝宗や伊達成実らがなんとか仲介すると、所領は僅か5村に縮小され、恨んだ畠山義継は次の二本松城の戦いに至る。

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二本松城の戦い

1585年10月8日、畠山義継(二本松義継)は御礼に参上すると言う名目で、宮森城の伊達輝宗を訪問すると拉致し、二本松城への帰路に就いた。
鷹狩りに出ていた伊達政宗は、この急報を受けると直ちに出陣し、高田原で追いつく。阿武隈川河畔の安達郡平石村高田あたりと伝わる。
この時、畠山義継と共に、父・伊達輝宗は命を落とした。享年42。
伊達政宗が父を救出しようと混戦になり、最後を悟った畠山義継が、伊達輝宗を殺害したあと割腹したとも、伊達勢が一斉射撃を行い両名が落命したともされるが定かではない。
畠山義継の遺臣は、11歳の国王丸(二本松義綱)を擁して、二本松城に籠城したため、伊達政宗は13000にて攻めるも、折からの豪雪もあり、小浜城に撤退した。

人取橋の戦い

二本松勢は、伊達政宗に対抗するため、常陸太田城の佐竹義重や、黒川城の亀王丸(蘆名勢)らに援軍を要請。
伊達政宗の急進に警戒した佐竹義重・佐竹義宣が兵を出しただけでなく、蘆名の亀王丸(彦姫)・二階堂の阿南姫・岩城常隆・石川昭光・白川義親・白川義広・相馬義胤ら南奥諸大名も派兵し、11月10日に須賀川まで進出すると、1585年11月16日に佐竹勢ら総勢30000は前田沢城に布陣した。
伊達政宗は約8000にて本宮城に入り対峙。
翌日、11月17日には伊達政宗は4000(7000とも)にて観音堂山に進み、伊達成実は1000にて高倉山(高倉城)に布陣した。
連合軍が総攻撃を開始すると、兵力に劣る伊達勢は総崩れとなり、伊達政宗自身も矢1、銃弾5を受けたが、殿(しんがり)を務めた宿将・鬼庭左月斎が、人取橋を越えて敵に突撃して退却時間を稼ぎ、伊達勢は辛うじて本宮城に退却した。
この日、本国の常陸に、馬場城主・江戸重通や安房の里見義頼らが攻め寄せるとの報を受けた佐竹勢が撤退すると総退却となったため、伊達政宗は窮地を脱している。
なお、佐竹家の家臣・小野崎義昌が陣中で殺傷されると言う事件も発生しており、圧倒的に有利だった連合軍が撤退したのは、伊達政宗が裏工作したなどの憶測を呼んでいる。

伊達政宗は岩角城から小浜城へ撤退して正月を迎え、1586年春から再び二本松城攻めを再開したが、守将・新城盛継の巧みな防戦と、南奥諸大名による後詰めによって成果を挙げられなかった。
しかし、籠城した二本松勢も限界であったため、1586年7月16日に相馬義胤の斡旋を受けて、二本松勢の黒川城退去を条件に和睦が成立。
二本松城は無血開城し、伊達成実が城主として入った。

中新田の戦い

1587年3月には佐竹義重の子・佐竹義広が、蘆名氏当主となった。
そして、1587年12月、豊臣秀吉は関東と奥羽に向けて惣無事令を制定したが、伊達政宗は無視。

1588年、蘆名・佐竹と敵対していた伊達政宗は背後を固める為、名生城の大崎義隆の内紛に乗じ、大崎家の重臣・氏家吉継(岩手沢城主)からの要請に応じる形を取る。
伊達政宗は浜田景隆、留守政景、泉田重光、小山田頼定ら10000(5000とも)の兵を1588年1月に派遣すると、大崎義隆は中新田城に南条隆信1500を据えて籠城戦を展開した。
留守政景と泉田重光とが激しく対立し、一枚岩でない中、1588年2月2日、泉田重光と長江月鑑斎(長江勝景)が中新田城を攻める。
しかし、城を囲む低湿地帯と、折からの大雪によって阻まれたところを、城から討って出た大崎勢と、留守政景の岳父・鶴楯城主・黒川晴氏が寝返って反旗を翻したため、伊達勢は敗走して新沼城へ撤退した。
更に、大崎勢は新沼城を包囲したため、救出に奔走した留守政景は、黒川晴氏の仲介を受けて和睦。
泉田重光と長江月鑑斎(長江勝景)が人質となることで、留守政景は2月29日に城兵を救出して退却した。

また、最上義光が5000を率いて大崎勢に呼応して、伊達領黒川・志田両郡の各所を攻略。
2月12日には、蘆名義広が大内定綱4000を派兵して苗代田城を攻略。
この時、南方を任されていた二本松城主・伊達成実の兵力は、大森城主・片倉景綱と、宮森城主・白石宗実を合わせても、わずか600しか残っていなかったが、郡山城・窪田城・高倉城・本宮城への攻撃を、伊達成実の巧みな戦術で、なんとか凌いでいた。

しかし、伊達勢の小手森城主・石川光昌が相馬義胤に離反したため、伊達政宗は相馬対策に出る事となる。
伊達成実は打開する為、大石定綱を調略することに成功。
すると、蘆名勢は4月18日に本宮城に攻め寄せたが、大石定綱と弟・片平親綱が率いる1000が撃退した。

伊達政宗は北と南から攻められて進退が窮まっており、5月になると、伊達政宗の母・義姫(最上義光の妹)が、戦場に赴いて最上義光に停戦を懇願した結果、泉田重光が山形城に連行されて、引き続き人質となる事で、最上と伊達は和睦。しかし、この隙を上杉景勝が突いて、惣無事令を無視し、最上の領庄内に侵攻して奪っている。

窪田の戦い(郡山の戦い)

1588年5月12日、相馬義胤は伊達派と相馬派に分かれて紛糾していた田村家の所領を確保し、小手森城応援のため三春城に向かったが、田村家の橋本顕徳に阻まれ退却。
そこを伊達政宗は突いて、閏5月16日に裏切った小手森城を陥落させ、石川光昌は相馬家へと逃れた。

そして、郡山城に軍を進めた蘆名義広と、窪田城の伊達政宗は、互いに砦を築き、約40日に渡り小競り合いを続ける。
佐竹義重は豊臣秀吉の惣無事令を気にして、事実上、様子見をした。

そして、7月4日、蘆名義広の家臣・新国貞通が窪田城に迫ると、伊達成実と片倉景綱が討って出ると、蘆名本隊と伊達政宗も加わり戦闘となった。
この時、伊達勢の伊東重信が討死している。
しかし、戦闘らしい戦いがあったのはこの日だけで、膠着するなか、北方で伊達家と最上家・大崎家の和睦が成立したため、7月21日には蘆名義広も石川昭光・岩城常隆の調停を受けて撤退したのである。

8月5日に、伊達政宗は三春城に入り、愛姫の従弟・田村宗顕を田村氏当主に据えて田村家を再興させ、人取橋の戦いから3年間にも及ぶ連敗をようやく止めた。

その後は、父・伊達輝宗の死後、追い詰められていた伊達家は、一転して拡大に転じる。

摺上原の戦い

1589年4月22日、伊達政宗は大森城を経て二本松城に入ると、2万の大軍を編成し、5月3日に本宮城に入った。
そして、5月4日には片倉景綱、大内定綱、片平親綱、伊達成実らを猪苗代湖の東にある安子ヶ島城に送ると、城主・安子ヶ島治部は降伏した。
5月5日には、安子ヶ島城の西にある高玉城主・高玉常頼を攻略させたが、進路を変えて北上し、5月18日には伊具郡の金山城に入城。
5月19日には相馬領の駒ヶ嶺城、5月20日には蓑首城・泉田甲斐も伊達家に降伏。
相馬義胤は岩城常隆と共に、田村郡侵攻を狙っていたが、諦めて引き返した。

この時、伊達政宗は猪苗代城主・猪苗代盛国の後妻を通じて内応を呼びかけており、6月1日、猪苗代盛国は蘆名家を裏切る。
伊達政宗は雨中の夜間行軍を強行して6月4日、猪苗代城に入った。

これに驚いた蘆名勢は須賀川から黒川城に急ぎ戻ると、伊達家の別働隊・原田宗時への備えを黒川城に残し、6月5日に16000の兵にて猪苗代湖の高森山へ進軍。
伊達政宗も23000を率いて八ツ森に布陣した。
夜のうちに陣構えした両軍は、6月5日朝6時頃から合戦となり、蘆名勢の富田隆実が奮戦する。
しかし、蘆名勢は足並みが揃っておらず、傍観する諸将もおり、あとが続かず総崩れとなった。
この時、伊達勢が日橋川の橋を落としていた。

猪苗代湖から流れる日橋川は、越後街道の猪苗代から会津への交通の要所を流れており、幕末には会津藩と新政府軍が日橋川に掛けられた「十六橋」で争った事でも知られる。
現在でも、越後街道(国道49号)の十六橋を渡る道が唯一と言って良く、当時、急流によって蘆名勢は1800名の蘆名勢が溺れ死に、討死した者は3580と言う、戦国時代でも関ヶ原の戦いの戦死者(4000~6000人)に匹敵するような事態となった。

これにより、蘆名勢は逃亡も相次ぎ、蘆名義広は黒川城の維持ができなくなり、6月10日の夜に常陸へ逃走した。

須賀川城の戦い

1589年7月には、奥会津の山内氏勝と、伊南の河原盛次も討伐。
摺上原の戦いにおいて蘆名家が滅亡すると、佐竹家の弱腰に悲観して、白河城主・結城義親(小峰義親)、三芦城主・石川昭光、大館城主・岩城常隆などが、伊達家に臣従。

伊達政宗は、須賀川城・二階堂家の事実上の当主である阿南姫に対しても、再三降伏を勧告したが、拒否したため、二階堂家の重臣・保土原行藤、浜尾行泰と嫡男・駿河守盛泰、善斎の弟・豊前守宗泰、木ノ崎右近大輔などから内応の確約を取り、10月20日に黒川城から出陣し、須賀川城攻めを開始した。
二階堂勢の矢部義政、越久義久なども内応を約束し、三春城から田村宗顕が合流すると、須賀川城に迫った。

二階堂家の阿南姫は塩田政繁、遠藤勝重、須田盛秀、守屋俊重、高久田義兼らと共に、佐竹勢の援軍を受けて抵抗したが、10月26日に須賀川城はたった1日で落城した。
なお、阿南姫は救出され、信夫郡の杉目に住まいを与えられたがこれを嫌い、甥の岩城常隆を頼っている。

こうして、伊達政宗は、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、奥州を制覇したと言っても良いほど、全国的にも屈指の戦国大名となった。

伊達政宗のすごいところ

伊達政宗が 1589年末の段階で直轄が114万石。
傘下に加わった大崎氏・葛西氏も含めると、140万石と言われる大大名となった時の年齢は、若干まだ23歳である。
18歳の時、30万石で家督を継ぎ、最初の4年は滅亡の危機にも瀕したが、僅か5年で110万石までとなった。
しかも、援軍と言えば田村家10万石くらいであり、ほとんど自力で道を切り開いていった。
もちろん、有能が家臣に恵まれたと言うのは言うまでもない。

しかし、時は既に豊臣秀吉が中国・四国・九州をも平定すると言う巨大な勢力となっていた。
そして、加賀の前田利家、駿河の徳川家康、越後の上杉景勝を従え、20万の大軍にて1590年に小田原攻めを開始するに至る。

ギリギリのところで、伊達政宗は箱根の豊臣秀吉に臣従を誓う。
惣無事令に反した事を咎められるも、命は救われて仙台・岩出山城58万石は安堵された。

もし、伊達政宗があと10年早く生まれていたら?と考えてしまうのは、小生だけであろうか?

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