真田昌輝 弟ながらも50騎を預かり活躍した猛将・武田24将


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 真田昌輝(さなだまさてる、真田兵部少輔、真田兵部丞昌輝)は、武田家の重臣・真田幸隆の2男。
 母は河原隆正の妹・恭雲院

 1543年6月に岩尾城で生まれたとされるが、ちょうど真田幸隆が武田信玄に仕える事になったか、ならないか様々な説がある年代で、生まれた地や生年の確かな事はわからない。

 兄に真田信綱がおり、弟に真田昌幸がいる。

 いずれにせよ、父・真田幸隆が武田信玄に使えると、真田昌輝は近侍として使えるようになり「百足衆」にも抜擢された。
 旗本として武田信玄に常に付き従い「一之先衆七千」を務め「兵部は我が両眼なり」とまで言わしめたという逸話が残っている。

 甲陽軍鑑によると、兄の真田本家と別家を立てる事が特別に許されると言う破格の待遇を受けており、兄・真田信綱の200騎とは別に、真田昌輝は50騎の侍大将として、信州先方衆の副将格の活躍をした。

 なお、兄・真田信綱とともに信濃国上田城を守り、小県や上野国吾妻を支配したとされるが、詳しい所領は不明。

 正室は相木昌朝の娘とされる。

 スポンサーリンク


 兄・真田信綱と一緒に出陣する事が多かったが、真田昌輝単独でも出陣して戦功を挙げている。

 1865年6月には倉賀野城攻略戦に参加。

 26歳とされる1568年の駿河国攻めのでは、山県昌景馬場信春小山田信茂小幡昌盛らと富士川沿いを南下。
 兄と共に先鋒を任され戦功を挙げた。

 1569年の三増峠の戦いでは真田信綱や内藤昌豊とともに遊軍を務めて、北条氏照らを撃退している。

 武田信玄の死後は引き続き武田勝頼のもとで活躍。

 1575年5月の長篠の戦いでは、最右翼の馬場信春、そのすぐ左翼の兄・真田信綱のさらに左横に布陣し、右翼部隊の一端を担った。
 織田軍の左翼・佐久間信盛の陣に突撃したが「丸山」と呼ばれる小高い丘を奪い合う局地戦となる。
 柵を一段越え首級を挙げるなど奮闘したが、深手を負って兄・真田信綱とともに討死した。享年33

 法名は嶺梅院殿風山良薫大禅定門。設楽ヶ原に墓が現存する。

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. 2015年 4月 08日

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 山手殿は宇多頼忠の娘という説が有力だが、武田信玄の家臣・遠山右馬助の娘とする説もあり、良くわかってい…
  2.  久保姫(くぼひめ)は、大館城主・岩城重隆の長女として1521年に生まれた。  通称は杉目御前、笑…
  3. 吉岡妙林尼(よしおか-みょうりんに)の生い立ちは良くわかっていませんが、父は林左京亮、又は丹生正敏(…

人気の戦国武将

  1. 稲葉一鉄(いなば-いってつ)は、土岐頼芸の家臣・稲葉通則の6男として、1515年に美濃池田の本郷城に…
  2. 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、1572年に武田信玄が3万の軍勢を動員した西上作戦として…
  3.  5歳の時に疱瘡に掛かり、一命は取り留めるものの右目を失った梵天丸。  米沢にて虎哉和尚や片倉景綱…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル書籍
柳生一族
2016年10月、書籍・電子書籍にて販売開始

 オリジナル電子書籍

2016年8月、戦国武将研究会著作
ページ上部へ戻る