枡形城(桝形山城)~稲毛有重の稲毛荘

枡形城(ますがたじょう)

小山田有重(母は宇都宮宗綱(八田宗綱)の娘)の子・小山田重成が、源頼朝の正室・北条政子の妹を妻に迎え、多摩丘陵にあった広大な稲毛荘を所領とし、1195年頃、枡形山に枡形城を築城。
その後、小山田重成は稲毛三郎(稲毛三郎重成)と称した。

稲毛荘は、川崎市中原区辺りを中心として、日吉・日吉本町・箕輪町辺りまで広がっていた。

稲毛三(稲毛重成)郎の墓所は神奈川県川崎市多摩区の館跡と伝わる廣福寺にある。
廣福寺は真言宗豊山派で、枡形山の山麓・北側に位置するので、枡形城を防御目的の要害としたのは間違いないだろう。
北方には武蔵・小沢城があり、最初、稲毛三郎は小沢城を本城としていた。
その後、子である小沢重政(小沢小太郎重政、小沢二郎重政)に小沢城とその付近の所領を譲り、稲毛三郎は枡形城に移ったようだ。


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枡形城は標高84m、比高58mの山城で、周囲の斜面はかなり急峻。北は丘陵に沿って東流する多摩川、南はかつては沼地があり、自然の要害であった。
有事の際に山頂に籠もって抗戦する「詰の城」と考えて良いだろう。
現在、山頂には枡形山展望台があり、多摩川方面がとても良く見える他、現在は、東京タワー、東京スカイツリー、新宿の高層ビル群、筑波山、横浜ランドマークタワーなど、展望が良い。

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「枡形」山の名は、源義経の正妻(河越氏)の弟の姓「松方」に由来するという説や、当時の多摩川南岸は「源義経支援部隊の拠点」であり、隣接する向ヶ丘遊園近くは源義経の兄・今若(阿濃禅師)も僧として住んでいたと言われている。

稲毛氏は、1205年の畠山重忠の乱に巻き込まれて滅亡。
室町時代に入ると土豪の稲ノ目氏なる者が城主となり、次いで松本氏が当城に入ったとの伝承があるが詳しいことは分からない。

戦国初期の1504年9月に、北条早雲(伊勢宗瑞)と今川氏親が関東の支配をめぐって山内上杉氏討伐のため出陣した際(長享の乱)、軍勢を一時、枡形城に入れている。
9月20日には北条早雲(伊勢宗瑞)勢が、枡形城に入り、9月21日には今川氏親勢が入城した。
その後、1504年9月27日の朝8時頃、北条早雲(伊勢宗瑞)と今川氏親の軍勢は多摩川を渡ると、それを知った上杉顕定・足利政氏らの軍勢が急行し、立河原の戦い(現在の東京都立川市)となった。
立河原の場所は、多摩川と浅川の合流点で、この頃はまだ稀である、戦死者2000名を超えたと言う激戦であった。
 

1569年、甲斐の武田信玄小田原城攻撃を行った際、別働隊の山県昌景・小幡重貞勢3000は多摩川沿いを南下する動きを当初見せた為、この土地の豪族であった横山弘成(横山式部少輔弘成)は、枡形山に土塁を築いて守りを固めたと伝えられている。かなり小規模ながら、戦いがあったとも言われている。
 
江戸時代に入ると、一国一城であることからも、この枡形城は廃城となったが、第二次世界大戦中には高射砲が山頂部に設置され、アメリカ軍の航空機へ攻撃したと言う。

ちなみに、多摩に店舗が多い「いなげや」も、この稲毛氏から名を取っている。

桝形城への行き方・アクセスは、生田緑地の東部を目指せばよい。
小田急の向ケ丘遊園駅から徒歩でも行ける。
車の場合、下記の地図ポイント地点の「生田緑地」有料駐車場が便利。

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