松浦隆信と松浦鎮信は弱小勢力から脱却に成功~平戸城の訪問記


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松浦鎮信(まつら-しげのぶ)は松浦隆信(まつら-たかのぶ)の長男として1549年に生まれました。
母は杉隆景の娘です。

松浦鎮信は1560年に塚原幹勝より剣術を学ぶなど文武両道の武将へと育ちますが、平戸には明の商人や中国人の海賊も多く住んでいたと言います。

そんな事もあり、ポルトガル船が平戸に連れて来られたため、父・松浦隆信は主家に当たる大友義鎮に報告してポルトガル貿易(南蛮貿易)を行っていました。
そして、鹿児島で布教を断られたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが1550年には平戸にやってきており、父が布教を許していたので、頻繁にポルトガル船が平戸に来航するようになっていました。
そのため、長崎が交易の中心になるまで、貿易で平戸は栄え、父・松浦隆信は富を得て、鉄砲や大砲などの武器も大量に購入したと言います。

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1563年には松浦氏の嫡流となる飯盛城主・松浦親 (松浦宗金)を攻めて隠居に追い込み従属されています。

1568年、松浦鎮信は大友義鎮より武具一式を賜って元服し、隠居した父・松浦隆信(41歳)から家督を譲られました。
ただし、父・松浦隆信(平戸隆信)は実権を引き続き握っていたようで、1571年には壱岐を支配に置いています。

ちなみに松浦鎮信の正室は西郷純堯の娘で、1571年には長男・松浦久信が誕生しています。

松浦隆信と松浦鎮信は1574年に三城城主・大村純忠を屈服させ、大村純忠の5娘・その(松東院)を、まだ幼い松浦久信の妻として婚約させることで和睦しました。

しかし、龍造寺隆信が台頭してきたため、松浦隆信と松浦鎮信は一時傘下に入りましたが、1584年、龍造寺隆信が沖田畷の戦いで討死すると、再び独立しました。

松浦久信が大村純忠の娘・その(松東院)と祝言をあげた頃の1586年3月には、九州攻め間近の豊臣秀吉にいち早く貢物を献上しています・
そして、4月には、広田城の戦いでの大村純忠、有馬義純、宗義智、波多信時、有田盛らを撤退させています。
そして、島津勢の征伐を知ると、いち早く豊臣秀吉に報告し、松浦隆信と松浦鎮信は豊臣家の九州攻めに貢献しました。

豊臣秀吉に松浦隆信・松浦鎮信・松浦久信の親子3代で拝謁した際には、加増は望まず所領安堵で充分と言い、豊臣政権での地位を確立しました。

なお、松浦隆信は中国の珍しい名器も所有していたので、初めて京に上った際には豊臣秀吉に茶讌を所望され千利休と3人で、それぞれの茶器を披露しています。

1589年、松浦鎮信も出家しましたが、父同様に引き続き松浦家の実権を握り続けたようで、1590年の小田原攻めでは水軍を出しています。

1592年からの朝鮮攻めにおいて松浦鎮信は、壱岐に新城として勝本城を築くよう命じられたあと、小西行長の一番隊に弟・松浦信実、子・松浦久信と共に渡航しました。
朝鮮にて日本勢は後半、コテンパに明国によって撃退されましたので、あまり知られていませんが、朝鮮に詳しい松浦勢は24戦24勝を誇っていますので、スゴイです。
ただし、連勝の松浦勢も兵士の約7割は日本に戻れることはなかったと言いますので、辛うじての勝利だったと言えるでしょう。
なお、高齢だった松浦隆信はもちろん水軍の指揮が執れるため、豊臣勢の兵糧米を海上輸送する任務を担当しました。

朝鮮で善戦した松浦鎮信は、現地より多くの陶工を連れて帰り、平戸焼き・三川内焼きの陶磁器産業を発展させましたが、全羅道の戦いの際に、小麦畑にひそんでいた若くて美しい女性も捕えて連れ帰ってきています。
この朝鮮女性の小麦様と呼ばれ、日本に渡る船の中で男子を産むなど、松浦鎮信の側室となり、3人の子を設けました。
ちなみにこの小麦様は、平戸の民からも大変慕われていたと言います。

1599年に、平戸城の築城を開始しますが、1599年閏3月6日に25代当主・松浦隆信が平戸勝尾山の自邸にて死去しました。享年72。

平戸城(ひらどじょう)は、別名を亀岡城(かめおかじょう)、亀甲城、日之嶽城とも言う梯郭式平山城で、平戸瀬戸に突き出た丘陵上にあります。

三方を海に囲まれた天然の要害であることから、萩城との立地に似ています。

もちろん、下記のような「井戸」もありました。
各写真はパソコンでクリックすると拡大致します。

1600年、関ヶ原の戦いでは、大坂にいた松浦久信は西軍の石田三成に協力し、鳥居元忠伏見城攻めや、伊勢・安濃津城攻めに参陣しました。

しかし、唐津にいた松浦鎮信は、大村領主・大村喜前、島原領主・有馬晴信、五島領主・五島玄雅の肥前4将で肥前・神集島に集まって、東西どちらに付くか協議したと言います。

その結果、国許にいた松浦鎮信は東軍参加の盟約に加わりました。
下記は二の丸にある亀岡神社です。

東軍に味方すると決めた松浦鎮信は、徳川勢から籠城して抵抗するような誤解を受けないよう、築城中の唐津城の一部を焼却するなどしたことも評価され、壱岐・松浦郡6万3200石の所領が安堵となり、伏見城攻めにも加わっていた子の松浦久信もお咎めなしとなっています。

そして、松浦鎮信は家督を松浦久信に譲ったようで、平戸法印と称しますが、1602年に、江戸に赴く途中、子の松浦久信は伏見で病に倒れ急死してしまいました。享年32。

この時、松浦鎮信は平戸・印山寺の僧に、祈祷させたにも拘わらず、松浦久信が急死しため、印山寺の僧侶らを処刑しようとしたと言います。
そのため、僧侶が皆逃げ出して葬儀ができなくなり、わざわざ壱岐から安国寺の僧が平戸に渡って来て葬儀を行ったと言う話があります。

1602年、松浦久信の遺児・松浦隆信が第28代当主となり、松浦鎮信が後見します。

そして、1603年には松浦久信の遺児・松浦隆信を連れ、江戸城にて徳川家康に拝謁しました。

しかし、この頃にはキリスト教の弾圧が厳しくなっており、遺児・松浦隆信の母であるソニカ(松東院)と、極度のキリシタン嫌いである松浦鎮信との対立だけならよかったのですが、徳川幕府からも平戸藩は目をつけられるようになります。
下記は平戸城からの展望ですが、梅雨の時期でして、強雨が止んだのを見計らって登城したため、天気が悪くお詫び申し上げます。

平戸城の標高は53mとなります。
下記の赤い橋は「平戸大橋」です。

下記は平戸の街並みとなります。
写真ではわかりにくいですが、教会も写っています。
江戸幕府からオランダとの貿易許可を得て、1609年にはオランダ船2隻が初めて平戸に入港し、オランダ商館も設置されました。

1613年に江戸幕府はキリスト禁止令を全国に広げ、1614年には高山右近など棄教しなかった者や宣教師らを国外追放にしています。

それでもこのソニカ(松東院)は平戸のキリシタンを陰から支援したため、1630年、江戸幕府はソニカとその親族の江戸在住を命じます。

そして、江戸の浄土宗・広徳寺に幽閉し、息子・松浦隆信の死に目にもあえないまま、広徳寺で死去しました。享年82。

晩年の松浦鎮信はオランダ使節を駿府城へ連れて行き、貿易の許可を得るなどして平戸貿易の再興を果たしていますが、一方で、1613年には完成間近の平戸城に火を放ち破却しています。

以後は「中の館」と呼ばれる居館が平戸藩の藩庁となっています。
下記の写真中央にある大きな屋敷が藩庁(現在の松浦史料博物館)です。

1614年5月26日、松浦鎮信が死去。享年66。

松浦鎮信の墓は平戸の最教寺にあります。
先に下記では「平戸城」をご紹介致しますが、その最後に「松浦鎮信の墓」の訪問記も記載したいと存じます。

さて、一度、廃城となった平戸城ですが、平戸藩4代藩主・松浦重信が1702年に幕府に願い出ると、1703年に許可されて、平戸城を修復を行いました。

この時、播州・赤穂城でも採用された山鹿流軍学に基づく縄張りが行われ、山鹿義昌が築城指導し、1707年にほぼ完成しました。
桝形も重厚感を感じます。

なお、天守は設けられず、二の丸に建てた3重3階の乾櫓をその代用としていたとの事です。
そのため、現在の平戸城の複合式層塔型3重5階の天守は、鉄筋コンクリート造模天守となっています。

平戸城へのアクセスですが、肥前・名護屋城からだとクルマで約2時間30分の距離です。
平戸城の駐車場ですが、下記の案内図どおり、いくつかあります。

一番便利な駐車場は、下記の地図ポイント地点となりますか、約6台くらいしか止められませんので、満車の時には、その先にある大き目な駐車場に止めても、平戸城訪問には問題ありません。

道路は南側から侵入する「一方通行」となりますので、交通規制を遵守願います。

そうそう、平戸城の天守は有料拝観ですが、JAF割引が使えます。
観光所要時間は、私の足で約40分でした。

下記は平戸市役所の脇にあるアーチ橋で「幸橋」(さいわいばし)と言います。

1669年(寛文9年)に当時の平戸藩主である松浦鎮信(松浦天祥)が木造の橋が架け、長年の不便が解消して幸いだったことから「幸橋」と命名されました。
その後、1702年に松浦棟が現在の石橋に架け替えたもので、石はオランダ商館の物を転用したともされ別名はオランダ橋と言い、国の重要文化財となっています。

松浦鎮信の墓

松浦鎮信の墓は、平戸城からもほど近い最教寺の境内にあります。

梅雨の時期ですので、あいにくの雨が降り出しましたが、頑張って散策してみました。

実は最教寺の「三重大塔」は有名でして、平戸城からも望めました。

下記のような、厳正な雰囲気の石仏群を抜けて登って行きますが、雷雨接近で空がもう暗くなりかけていたことから、ちょっと恐怖感も味わえました。

その石仏群を抜けたところの階段を登ると三重大塔なのですが、階段は上がらないで、そのまま真っ直ぐ進みます。
しかし、写真でも先が良く見えないくらい、うっそうと木々が茂った中にありました。

下記が松浦鎮信の墓です。
丁重に頭を下げまして写真撮影させて頂きましたが、ご覧の通りフラッシュがないと写らないような暗さです。

松浦鎮信の墓は、案内の石碑があったので分かりましたが、その周辺にもたくさんの石碑(墓)がいくつも無造作にあります。

近くには、小麦様の墓などもあるようなのですが、足元は枯れ木や繁みもあってきちんと草が刈られているのは、松浦鎮信の墓の部分だけでして、その他にも蚊もスゴくて、ゆっくり探す気にもなれません。

それにこの「暗さ」でして、写真に写っている白い丸のようなものは「雨粒」であることで、ご理解頂けるように「雨」で足元も悪いため、これ以上は断念しました。

最教寺へのアクセスですが、下記の地図ポイント地点が境内駐車場となります。

松浦家は8代目となる松浦久(ひさし)が1069年に下向してから約800年間、この地を守りました。
天守が復元されている城としては、九州の最果てとも言えませんが、機会があれば是非ご訪問してみてはいかがでしょうか?

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