松木屋敷跡と大石宗虎屋敷跡・サルスベリ(大石やかた公園)


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多摩の柚木城近くの松木屋敷跡(東京都八王子市)と、大石宗虎屋敷跡を訪問させて頂きましたので、ご報告したいと思います。

松木屋敷跡

松木屋敷跡は現在、浅間神社となっています。
ただし、小規模な神社さんでして、多摩ニュータウンの造成により、周囲の地形もだいぶ変わってしまっていますが、その中に昔のままポツンとある感じで、標高は110m、比高は15mです。

大田川を見下ろす高台の先端にある浅間神社の場所が屋敷跡とされています。

ここは、鎌倉公方・足利持氏の家臣である松木師澄(松木七郎師澄)の屋敷跡として新編武蔵国風土記稿に記載されており、村東の地蔵堂が跡地で、南の山には馬場跡があったとされます。
その地蔵堂もここ浅間神社の1段下がったところにあります。

屋敷跡として考えた場合、現在の浅間神社の敷地だけでは狭すぎますので、実際の屋敷は松木小学校辺りが中心だったのかな?と、勝手に想像してしまいます。
南の山の馬場は、池もある蓮生寺公園で間違いないでしょう。

この松木の辺りには、平安時代には大和政権が役人を派遣した、由木の役所もありました。
このように史跡が結構あるのですが、残念ながら大規模な多摩ニュータウン開発でかなり失われてしまったところが多く残念です。

浅間神社の北側にあたり1段下がった地蔵堂のある東端には、松木七郎師澄の墓とされる宝篋印塔があります。
宝篋印塔に刻まれた銘文によると、成然禅尼という女性が、亡くなった夫の供養ために建てられたものだと考えられます。
その昔は、永和二丙辰年六月十四日(1376年6月14日)との文字が読めたそうですが、現在は風化して読めないようです。写真のうしろにある石碑は、600回忌の記念供養塔です。

この松木師澄(松木七郎師澄)が、亡くなったのが1376年と言う事になりますと、応永五年(1398年)生まれで1437年に討死した足利持氏とは年代が合いませんので、墓は松木七郎師澄の父などである可能性もあるのかな?と感じます。
と言う事で、松木氏に関してはわからないことが多いです。
しかし、1590年の戦国時代に、八王子城主・北条氏照の家臣らが八王子城に籠城します。
そして、豊臣秀吉勢の北国軍(前田利家上杉景勝真田昌幸)から八王子城は攻撃されましたが、この八王子城には「松木曲輪」と言う防御陣地があります。
この松木曲輪の守将が、ここ松木屋敷の松木氏かどうかは確証は得られませんが、子孫は北条家の家臣に加わっていた可能性もあります。
ただし、八王子城総攻撃の戦死者として、松木(まつぎ)と言う名は見受けられません。

松木屋敷跡(浅間神社)の場所は下記の地図ポイント地点となります。

駐車場はありませんが、北側の崖下(階段脇)の道路は駐車禁止ではなかったようなので、そこに止めて参拝致しました。
参拝所要時間は約5分といったところです。
地図は縮尺を変えてご覧ください。

最寄り駅は京王堀之内駅で徒歩10分くらいですが、皆さまご承知の通り「堀之内」と言う地名があるところには、かつて「堀」を巡らした中に「屋敷」があった場所と言う事で、豪族などの屋敷があったと推定できます。
と言う事で、ここ多摩の堀之内も、平安時代に西党・西三郎宗貞と密接な人物が分知して由木氏を称して、その屋敷があった故に地名が堀之内と言う事ですが、実際どこに堀之内と呼ばれた屋敷があったのかはわかっていないようです。
これも、想像しますと、川の合流点である西側に屋敷を構えて、南北に「堀」を掘れば、充分、堀之内になると思いますが、洪水などで遺構は失われたのでしょう。
なお、京王堀之内駅を建設した際には、発掘調査の結果、縄文時代の人骨なども出ており、多数の縄文土器・弥生土器や石器や竪穴住居跡など、さまざまな遺物が出土したとの事です。

※下記では続いて大石宗虎の墓をご紹介致します。

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大石宗虎の墓とサルスベリ

大石宗虎屋敷跡は、このページトップの写真にある大栗川の脇にある高台の上にあり、新編武蔵国風土記稿に大石信濃守の屋敷跡と記載されています。
先に「大石やかた公園」について述べておきますが、この公園じたいは遺構とは全く関係ありません。
大石氏の館があった場所は、その公園の上にある高台です。

この高台は「松木台」と呼ばれ、1558年~1569年頃に大石宗虎(大石信濃守宗虎)の館があったとされますが、古くは古墳時代の水場遺構や、平安時代の住居跡などもあると言います。

館を構えていた大石宗虎(大石信濃守宗虎)ですが、戦国時代の大石家で「信濃守」を名乗ったのは大石定基(大石信濃守定基)しかいませんので、滝山城主・大石定久の弟・大石定基=大石宗虎(大石信濃守宗虎)と推定されます。

なお、大石定久北条家に屈服する前には、埼玉の柏城主に大石信濃守と言う名が見られます。
この大石宗虎も同一人物だと考えられ、滝山城が完成してからは、滝山城内に信濃屋敷跡(信濃郭)と言う広い場所がありますので、柏城から滝山城に入った可能性もあります。

1559年に北条氏照が滝山城に入ったと考えられますが、ここ松木台に屋敷ができたのは1158年~1569年頃と推定されています。

大石宗虎(大石定基)は、北条家の重臣・松田康定の子・松田源七郎(松田惣四郎)を養子に迎えていますが、家督を譲った2年後である1571年に死去したとありますので、大石宗虎(大石定基)が晩年に居住したのが大石宗虎屋敷跡だったのではないでしょうか?
そう考えますと、1571年に死去したとされる大石宗虎の墓が、ここにあるのも納得できます。

大石照基は祗園城代でもありますし、北条氏照の小姓になっていた可能性もありますので、松木台に住んだかどうかは不明と言えるでしょう。
ちなみに、新座の館郷中野村宝幢寺(柏町一丁目)には、柏城主・大石信濃守の子である大石四郎(大石照基)の屋敷跡があると伝わっています。

大石照基も家督を継いだあと大石信濃守照基と称していますが、北条家滅亡後は徳川家に仕えて松田惣四郎松庵と復姓し、結城秀康に2300石で召し抱えられていますので、墓所がこことは考えにくいです。
そのため、ここの墓の大石信濃守は大石宗虎で間違えないでしょう。
なお、大石家では信濃守を代々使ったりしていますので、混同に注意が必要です。

松木の墓石には下記の通り記載されていると言います。

蓮心院法性開華大居士(大石宗虎)
法蓮院春応妙華大禅定尼(大石宗虎室)

写真中央の供養塔は新しいもので、その周りにある小さな墓石が、大石宗虎の墓と大石宗虎の正室の墓との事ですが、どれかは私もわかりません。

宝篋印塔の前のサルスベリ(百日紅)は樹齢400年だそうでして、そうしますと戦国時代からここにあったと考えられます。

さて、松木の大石宗虎屋敷跡に駐車場はありませんが、北側の崖下の道は、駐車禁止ではないので、そこに車を止めさせて頂きました。
サルスベリと大石宗虎の墓へは、下記の地図ポイント地点から、階段を上がって行きます。
そして、農地の中を進むと、右手の崖側に墓地とサルスベリが見えてきますので、行けばわかると思います。
ただし、帰った後でわかったのですが、ここは民間の所有地と言う事です。
見学の制限まではなさっていないようですが、もし敷地内で住民の方に出会いましたら「見させてください」程度の挨拶はしたいものです。
夏場は虫除け必須です。

北八幡神社

なお、新編武蔵国風土記稿の興味深い話では、譜願寺(普願寺)の開基は、大石信濃守宗虎で、境内には大石信濃守宗虎の墓とされる五輪塔の石塔(供養塔)があると記されています。
この大石宗虎は、滝山城主・大石定久(大石源左衛門定久)の弟ではなく、嫡子と言う事になっており、最初は大石内記と称したとあり、近郷由木に居館を構えて元亀2年(1571年)6月8日に没したとあるそうです。
ほんと、大石家は色々な説が出てきて難しいです・・。

譜願寺(普願寺)は既に廃寺となっていますが、その跡地に北八幡神社があります。
ただし、大石宗虎の墓とされる五輪塔は失われているようですが、さっそく北八幡神社も訪れてみました。

グルッと境内をまわって見ますと、景色の良い所が・・。
大石宗虎の墓がある方向の遠景です。

しかし、五輪塔は見当たりません。

境内に社がありましたが、中は五輪塔ではありませんでした。

付近には壊れかけた塔のようなモノも朽ち果てていますが、これらが五輪塔であったのかは、確証が得られませんでした。

念の為、北八幡神社の場所も地図にて示しておきます。

付近の見どころである「柚木城」はこちら
八王子の史跡・史蹟一覧~八王子城・滝山城からマイナー館跡まで

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