松山城~威風堂々と構える見事な構造も敵を欺く芸術的防御


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松山城(まつやまじょう)は、伊予(愛媛)の松山にある標高132m、比高約90mの連郭式平山城で、津山城、姫路城と共に日本三大平山城にも選ばれています。
別名は金亀城(きんぎ)、勝山城(かつやま)とも呼ばれます。

伊予(愛媛)を支配していた河野通直は、松山城から東にある道後温泉近くの湯築城を本拠としていました。
その後、伊予に入った加藤嘉明は松前城(正木城)を拠点としていました。

そのため、松山城が築城開始されたのは、関ヶ原の戦いのあとである1602年頃となっています。
加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功で20万石となり、この勝山に城を築城したのです。
普請奉行は重臣の足立重信です。
そして、1603年10月、新城が完成すると本拠地とし、加藤嘉明は地名を「松山」と変え、松山城も誕生したのです。

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今回、松山城を巡るにあたっては、麓から松山城山ロープウェイで中腹の長者ヶ平まで登り、帰りは県庁裏登城道を下り、二の丸史跡庭園も見学するコースに致しました。

ちなみに、ロープウェイに平行して、リフトも運行されており、同じ切符で、どっちに乗ってもいいようになっていまする
ロープウェイは2分30秒の乗車時間ですが、リフトは約6分掛かります。
朝8時30分の運行開始に合わせて、道後温泉の宿を出て、レンタカーを付近のコインパーキングに止め、ロープウェイ乗り場へと向かいしました。
一応、下記の地図ポイント地点がロープウェイの乗り場です。
ちなみに、ロープウェイを使わないで歩くと20分の登り坂となります。

駐車場は通常、松山城駐車場が案内にありますが、この付近には100円パーキングが豊富ですので、空いているところに止めれば良いのではと存じます。
一方通行の道にあるフラワーパーキングが駐車台数も多くて近いのですが、機械式なので車高が高い車は止められませんので、ご注意を。

さて、長者ヶ平から本丸方面に進みますと、緩やかな坂道を登って行きます。

下記は隠門の下あたりの石垣です。
勝山と呼ばれていた山頂が本丸で、南西麓に二の丸と三の丸、北には北曲輪、南東には東曲輪があります。

下記は、筒井門の下となる石垣ですが、結構な高さがあります。
当然、その上がどのような構造になっているのかは、見えません。

下の写真は松山城以外の工事現場でたまたま撮影したものですが、石垣は下記のように作ります。

下記の辺りは、松山城の大手門跡の付近です。
ここから本丸へと入って行きますが、その間にはいくつも難関があります。
まずは、下記の写真右奥に、天守方向の建物が見えてきますよね?
なので、この坂を上がったら、そのまま「まっすぐ」行きたくなるのですが、実は「罠」(わな)です。
この坂を上がったら、右手に180度Uターンしないと、たどり着かないのです

Uターンすると、戸無門が見えてきましたが、ここからは通路も若干狭くなってきます。
高麗門の造りですが、戸を設けた跡が柱に無い事から、創建当初から門扉がなかったようで戸無門と呼ばれています。
門なのに戸がないとはいかにも大胆であり、こっちは重要ではないよと、侵入者を勘違いさせる作戦だったのではないでしょうか?

大きな筒井門の前までやってきました。
筒井門は松前城から移築したものと伝わっています。

この筒井門も、実にオモシロイです。
普通、攻めて来た敵は、この大きな筒井門から入ろうとして、色々、門を壊し始めたりするでしょう。
しかし・・。

上記、筒井門の右奥には、下記のように「隠門」と呼ばれている通用門のような小さな門があります。
まさに、ここに門があるとは、気が付きにくいんですよね。
普段はこの小さな門から出入りしていたのかも知れませんが、敵が攻めてきた時には、この隠門から筒井門に殺到した敵を「側面攻撃」できる訳です。
いや~、加藤嘉明さんは素晴らしい築城術をお持ちです。

下記は、その筒井門・隠問をパノラマで撮影したもです。
写真左側が登って来た戸無門です。右奥にあるのか、ないのか見えない所に、隠問があります。

筒井門を無事に突破できたとしても、まだ安心はできません。
下記は太鼓櫓(修復工事中)と右の太鼓門を撮影したものですが、このようにパノラマ写真も「ゆがむ」くらい、差し迫った狭い所でして、筒井門から入って来た敵を、長い廊下櫓から「幅広く」多くの鉄砲にて迎え撃つことができるようなっています。
すなわち、集中攻撃できるんですね。
しかも、写真のとおり、次に進むべき入口が、どこにあるのか?、わかりません。
なんか、二百三高地のロシア要塞のように思えてきて、先陣は勘弁してほしいと思いました。

これでは、入口はどこだ?と、紆余左右して捜しているうちに、撃たれてしまいます。

当然、背後の筒井門の続櫓からも攻撃を受ける訳です。

一番右奥に進むと、奥まったところが、太鼓門の入口なのですが、下記のように、これまた狭い門となっていました。
もちろん、横矢が掛けられるようになっています。

いや~、楽しかったですね。
本丸にまだ上がってないのに、すでに来て良かったと思いました。
若い女性2人組は「景色綺麗だね~」と、私が見ていたのとは逆方向の下記写真の風景をご覧になっておられましたが・・。

このように、松山城の門などの建物は21棟が国の重要文化財として残っているので、昔のまま防御態勢を体験できることができます。
他の石垣しか残っていない日本全国の城郭でも、復元で良いので建物があれば、より、イメージが膨らむのではと強く感じました。
と言う事で、本丸に到着です。

下記の本丸井戸は深さ44.2mと、当時としては普通掘れない深さだそうです。
なんでも、もともとは南北に2つの峰があったそうで、その峰を削って、谷を埋めて本丸の平坦地としたそうです。
その時、谷底にあった泉を「井戸」として残したと伝わっているそうです。

松山城の二の丸と三の丸を含む松山城山公園は、国史跡に指定されています。

松山城に残っている建物の現存数は二条城28棟に次ぐ、21棟となっています。

創建当時の天守は5重であったとされています。

現存する天守の一つである連立式層塔型の天守は3重3階地下1階の構造ですが、伊予松山藩12代藩主・松平勝善が幕末の1852年に再建されたものとなっています。日本で最後の完全な城郭建築です。
下記は、パノラマ機能で建物全部が入るように撮影してみました。

朝8時30分のロープウェイに乗って、本丸に着いたのは8時45分くらいでした。
松山城の天守には9時から入れるのですが、天守前の受付で「9時からですか~?」としらじらしく聞いてみたら「5分前からいいですよ」とのお返事を賜りましたので、残り10分を使って、乾門など西側を見に行きました。

下記は紫竹門です。乾門方面からの侵入に対する防御体勢ですね。。

松山城を築城した加藤嘉明ですが、1627年に40万石として会津若松城に移ると、出羽・上山城から蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が24万石で松山城に入りました。
下記は乾門です。

1634年に蒲生忠知が死去すると跡継ぎがいなかったため、改易となり、その後、松平定行(桑名藩主・松平定勝の子)が15万石で入りました。
乾門の手前は土地が狭くて、門が写真に入りきらないので、ここでもパノラマで乾櫓も入れて撮影してみました。

下記は乾門を入ったところの風景です。
北隅櫓も見えます。

下記は先ほどの坂のうえから、乾門と乾櫓を内側より撮影したものです。

日本で唯一現存する望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)が下記です。
ちょっと、工事中であまり良い写真ではありませんが、この野原櫓の造りは、石垣の上にある訳ではないので、礎石を置いて建築する精度も必要で、犬山城と同じ初期の望楼型です。
すなわち、天守の原型のような建物なので、大変貴重なのです。

さて、再び本丸の方に戻って参りました。

しかし、標高132m、比高90mは、平山城としては高すぎませんか?
ありがたいことに、中国人観光客の方も本丸にいらしておりましたが、大阪城の時と同じで相変わらず、城ではなく「花」(今回は梅)をバックに写真撮影なさっておられます。

さて、8時55分になりましたので、天守の受付を通ります。
他の方は、まだ本丸をウロウロされておられましたので、松本城白石城に続く、本日一番乗りでございます。

さて、いよいよ天守閣への入口が迫って参りました。
下記の場所から、いよいよ天守閣へと入っていく訳ですが、ここも何やら、おもしろそうな臭いがします。

面白そうですし、他の見学者さんもまだいないので、ここからはちょっと、動画を撮影してみました。
進入する敵の目線にて撮影してみましたので、約1分40秒、もしよろしければ、下記のYouTubeを再生してみてください。

ご視聴ありがとうございました。
松山城の天守入口までの写真10枚連続で参ります。
そうそう、始めて当方のサイトをご覧になられた方は、分からなかったかも知れませんが、各写真はクリックすると拡大して、スライドも可能です。

上記の入口が、天守見学の入口となる訳ですが、例によって写真が多すぎるので、天守内部の写真は下記の別サイトにて掲載させて頂きます。

松山城の天守内部写真集はこちら

さて、松山城の天守を見学致しまして、外に出て参りました。

下記は天神櫓です。
具足を保管していた櫓だそうでして、卯歳櫓、東隅櫓とも呼ばれます。

天神櫓の中は、現在、菅原道真が祀られています。

さて、ロープウェイを降りた長者ヶ平まで戻ります。
松山城の揚木戸門跡(大手門)付近には、番所もあったようです。

そして、県庁浦登山道を下っていきますが、途中から「登り石垣」が見えます。

お分かりになりますかね?
曇りだったらよかったのですが、晴天時の欠点でして、木漏れ日になってしまうため、写真だとわかりにくいですね。

山の斜面を「登るように」石垣が設けられているのです。

この「登り石垣」の技巧は、山腹から侵入しようとする敵を阻止するため、ふもとの館と山頂を、山の斜面を登る2本の石垣で連結させたものだそうです。
豊臣秀吉が朝鮮出兵した際に、日本遠征軍の拠点「倭城」を築城した際に採用された防備手法と言われています。
国内の現存12天守の城郭では、松山城だけでなく、彦根城にもあるそうなのですが、彦根城では気が付きませんでした。
考えるに、竪堀の発展タイプだと思います。

松山城は本当に見事でして、是非、永遠に残して頂きたい日本の歴史でもあります。

次には「大井戸」と呼ばれる巨大な井戸?がある、松山城の二の丸史跡庭園にも寄ったのですが、またまた写真も多いので、別の頁にてご紹介させて頂こうと存じます。

松山城の麓にある「二の丸跡」二之丸史跡庭園には見たこともない大きな井戸?があった

松山城の観光所要時間ですが、その二の丸御殿跡も見て、駐車場まで歩いて戻って、合計で約90分前後でした。
昼時に登っても、長者ヶ平と本丸の2箇所に軽食もあるお土産店とトイレがあります。

電車の場合、JR予讃本線の松山駅から伊予鉄道に乗り大街道下車で、ロープウエイ乗り場まで徒歩5分です。
一般的には、松山城の東側からロープウェイ又はリフトでの往復となります。
それでも、松山城は、かなり見応えがありますので、見学所要時間は90分以上見て置いた方が無難だと思います。
ご見学は計画的にどうぞ。

松山城の麓にある「二の丸跡」二之丸史跡庭園には見たこともない大きな井戸?があった
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