松姫は松姫峠を通ったのか?


スポンサーリンク
スポンサーリンク

松姫

 大月市と小菅村を結ぶ国道139号に「松姫峠」があるが、下記の理由から歴史研究上では松姫はこの峠を越えていないとされ、松姫峠を通ったという説明は間違えである。

 1.車で踏破するにも大月市側は大変険しい峠道である。
 2.松姫峠の名は明治以降に新しく開通した新道路の峠名として、山梨県知事様が松姫伝説に思いを寄せ命名したとされ、昔から松姫峠と呼ばれてはいない。
 3.八王子恩方へ逃げるコースより逸脱している。

 実際の逃避ルートは全く不明である。当方宛に届いた自説などもふまえて下記に甲府から八王子への予想経路を紹介したい。
 ※松姫トンネル(3066m)が完成すると、松姫峠は通行止になるかも知れません。

 スポンサーリンク


<メイル連絡頂いた、金子世也氏説 (原文のまま掲載)>

 私は奥多摩山行をしてきていますので、いろいろ実地に歩いた感じでは向嶽寺→大菩薩峠→鶴峠→三頭山→鞘口峠→浅間尾根→檜原城下→市道山→イッポチ→関場(金照庵)→心源寺→現信松院という長い苦しい落人ルートの可能性が大きいと考えています。理由は、小さな子供連れでお付の武士侍女もいたろう多人数での落人で、ひっそりと隠れる様に逃げたわけなので、街道を通るはずがないこと、以上のコースは難所はなく大体楽なコースであること(女子供も歩ける)、ひっそりと伝わってきた武田遺臣や松姫の伝承物や話が遺っていること。です。

 金子世也氏のご指摘の通り、檜原から恩方へ抜けるルートも、戦国時代の頃には良く使われる峠道であったので、可能性は否定できない。 

<小生の説>

 松姫一行は2月15日頃には、既に甲府盆地の東にある甲州市塩山の向獄寺(下記写真)まで来ている。

 2月28日、高遠城が落城。3月6日には織田信忠が甲府に入り、3月11日、武田勝頼北条夫人が田野(景徳院)にて落命し、松姫が相談していた竜芳も亡き者に。3月15日には小山田信茂も切腹。
 このような状況の中、松姫一行はさらに塩山にて身を隠していたとされ、いよいよ危ないと、3月23日に塩山を発ち、3月27日に八王子・上恩方に到着したとされている。
 3月24日には武田信友(武田信基)と武田信廉が斬首されるなど織田・徳川勢の大軍が甲府や郡内に入っており、武田勝頼も既に命を落としている状況で、武田の残党狩りも厳しく逃れる決心に至ったのだろう。
 恵林寺快川紹喜も4月3日に焼死した。

 松姫一行には、当時3歳と言える幼い姫が3人も同行していた事も考慮すると、かなり厳しい逃避行であったに違いない。
 3月23日に塩山を出発し、3月27日に恩方に入った説をそのまま捕えると、塩山から八王子までの約100kmを、時速3kmで1日約8時間歩かなければならない計算だ。
 一行は20名~30名と推定されるが、3歳児や女子などが、道の険しい山間部をたった4日間で幼子を連れて移動するのは、かなり大変だったであろう。
 しかし、笹子峠を越えるのは不安もあるので、やはり大菩薩峠を経由したと考えて妥当だと考える。

 下瀬戸にある松姫旅館(松姫鉱泉)には、松姫一行が一晩休息を取ったと言う伝承もあり、すぐ近くには松姫神社もある。

 この伝承は不確定要素もあるが、考えられなくもない。
 そうなると、大菩薩峠から瀬戸方面へと降りた可能性が高いと言う事か?

 しかし、大菩薩峠を越える旅をした場合、小菅に入るのが古道であったようなので、そう考えると、鶴峠を越えて西原へと抜けるのが、追っ手を警戒するにも良いように思える。

 そして、和田峠または明王峠(現在の底沢峠)を経て八王子恩方に隠れ住んだと小生は考える。
 当時、上野原辺りまでは武田勢の支配下であったし、織田勢は東から武田領に進入していない。西から攻めてきた織田勢に対して、武田を見限った武田家臣の多くも東の八王子方面を目指しており、早期の移動でれば追っ手の心配なく関東方面を目指せる。その為、移動に無難な昔の甲州街道を通り、陣場街道に入れる。

 小仏峠は江戸時代に入ってから正式に整備されたため、戦国時代に甲斐から武蔵に超える場合は、通常は現在の和田峠、その昔の名は「案下峠」を通過するのが普通であった。

 そして、最近分かった事だが、その和田峠直下の案下(あんげ)にある旧家・渡辺家に松姫一行が休息したと言う伝承がある事がわかった。
 この渡辺家には、長篠の戦いで落命した武田家臣の幼子が、この案下の渡辺家に住んだとされ、ささやかなもてなしではあったが、疲労していた松姫一行を助けたと言う。

 上記は案下の関所跡にある、松姫の碑(右)。

 織田勢の甲斐攻めの際、小田原北条氏は織田信長の武田攻めの際、事実上織田氏と同盟しており、織田勢として相模から武田領に侵攻しているが、織田勢から作戦日時などを一切知れされなかったようで、共同戦線が取れず、目だった軍事行動はない。(北条氏は織田氏の対応に不満を述べている。)
 武田勝頼自害のあと、隠れ住むのに難渋したと考えられるが、松姫らはなんとか無事に切り抜けた。その理由としては、北条氏は武田攻めの際には織田勢ではあったが、実際には織田勢を信用できないと考えていた、北条と武田は親戚と言う事もあり、八王子城主・北条氏照などの擁護がある程度はあったのではないかと考えられる。そうでないと八王子に留まるのは困難である。

 松姫の八王子への逃走経路に関して、皆様も自説などございましたら、コメント欄よりお知らせ願います。

 →松姫、督姫、貞姫(小督姫)、香具姫
 →向嶽寺~山梨・塩山と抜隊得勝~松姫も八王子に逃れる際に滞在

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 島津亀寿(しまづ-かめじゅ)と言う薩摩のお姫様がいます。 亀寿姫と呼びますが、法名から薩摩では持明…
  2. 久保姫(くぼひめ)は、大館城主・岩城重隆の長女として1521年に生まれた。 通称は杉目御前、笑窪御…
  3. 慶誾尼(けいぎんに)は、慶ぎん尼とも書きますが、1509年に生まれた村中龍造寺家の当主・龍造寺胤和(…

人気の戦国武将

  1. 真田丸(さなだまる)とは、真田幸村が築いた大阪城の出城の名称である。 大坂冬の陣に参加して欲し…
  2. 淀城には「淀古城」と「淀城」の2つがありますが、その理由と歴史について調べてみました。 (さらに…
  3.  天正壬午の乱(てんしょうじんごのらん)は、1582年6月、織田信長の死後、空白地帯となった甲斐・信…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります

戦国グッズ通販

実際に鉄板も使用した本物志向「高級」甲冑型の携帯ストラップ
甲冑型ストラップ

甲冑型ストラップ

戦国武将「Tシャツ」や「スウェット」その他もあり。
戦国武将シャツ

戦国浪漫「戦国グッズ」通販

メールでお知らせ

新規記事追加をメールで受信可能。

ページ上部へ戻る