明月院~北条時頼の墓と上杉憲方の墓【鎌倉・あじさい寺】


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 北鎌倉明月院(めいげついん)は「あじさい寺」として有名ですが、史跡としての歴史も申し分なく、武将関連の見どころもたくさんあります。

 1160年、平治の乱にて討死した首藤俊通(首藤刑部太夫)の菩提を弔う為、子の山ノ内経俊(首藤経俊)が「明月庵」を建立したのが草創とされます。

 その後、1256年、鎌倉幕府5代執権・北条時頼が、執権職を北条長時に譲った際に出家し、この鎌倉の山ノ内に私邸があったことから最明寺を建立し、別邸に持仏堂を造営して隠居したものの37歳で死去したと言います。
 そして、北条時頼の子であり、モンゴル帝国の元寇を撃退したことでも知られる8代執権・北条時宗が、最明寺を前身にして、建長寺開山・蘭渓道隆(大覚禅師)(中国の僧)を招くと禅興寺を1268年に開山・創建しました。

 実際のところの開基は関東管領・上杉憲方とみるのが正しいようです。
 室町時代になり廃れていたのを、1380年に関東公方・足利氏満が、関東管領・上杉安房守憲方に命じて、禅興寺を中興させました。
 上杉憲方は出家後に、蘭渓道隆の5世法孫・密室守厳を開山として、塔頭寺院「明月院」を建てました。
 塔頭(たっちゅう)寺院と言うのは、既に亡くなった人物の偉業を後世に伝えるために建立した寺院と言う意味です。

 禅興寺には江戸初期に、徳川家康の参謀僧としても知られる以心崇伝が、住職にもなっていますが、やがて廃れて明月院の管理となり、明治に入ると廃寺となり明月院に吸収されました。

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北条時頼の墓

 明月院の境内に入って、左手に進むと北条時頼廟があります。
 下記写真ですね。クリックすると拡大します。

 その脇に、北条時頼の墓所(宝篋印塔)があります。

上杉憲方の墓

 上杉憲方の墓とされるものは、山肌に穴を掘った「やぐら」の中にあります。
 場所は、参拝入口からずっと奥へと進み、本堂の前を通って「開山堂」と言う建物の左手にあります。
 ※写真は中がわかりやすいように、コントラスト上げてあります。

 この明月院やぐらは、鎌倉に数多くある「やぐら」の中でも最大のものとされ、上杉憲方の墓とされる宝篋印塔が安置されています。
 岩肌にも仏像などが描かれているのが鎌倉でも珍しいです。

 なお、鎌倉・明月院への行き方やその他の写真など下記でも公開していますので、合わせてご高覧賜りますと幸いです。

鎌倉・明月院のあじさいが咲いていない季節の写真など
訪問しておきたい神奈川県の城郭・寺院・古戦場など一覧リスト

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