三方ヶ原の戦いと一言坂の戦い~史跡の写真や地図・駐車場情報も


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三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、1572年に武田信玄が3万の軍勢を動員した西上作戦として、青崩峠・兵越峠から遠江に侵攻し、中根正照が1200で守る二俣城を降伏させたあとに発生した徳川家康との合戦です。

本拠地・浜松城を防衛したいと徳川家康でしたが、西三河の長篠城方面からは山県昌景ら5000が侵攻しており、柿本城井平城井伊谷城などをことごとく攻略。
徳川家康は全軍のうち、3000を三河方面の迎撃に出していたため、浜松城には8000程しかいなかったと言います。
また、盟友の織田信長は、近江で浅井長政朝倉義景の連合軍と対峙しており、佐久間信盛(佐久間右衛門)、平手汎秀(平手甚左衛門)、滝川一益、林通勝、水野信元(水野下野守)ら通説では3000しか援軍を出せなかったとされますが、最近では岡崎城吉田城・白須賀などに1万以上は送っていたのでは?とされています。

三方ヶ原の戦いになる前に、一言坂の戦い二俣城の戦いがありましたので、ここでは先に「一言坂の戦い」をご紹介致します。

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一言坂の戦い

1572年10月13日、天竜川を武田勢に渡られたくないため、徳川家康は30000にて浜松城から出陣して、天竜川を越えます。
この時、本多忠勝と内藤信成を偵察として先行させていましたが、馬場信春・小杉左近ら武田の先行部隊と遭遇するのです。
徳川の偵察隊はすぐに退却開始しますが、素早い動きで追撃した武田勢に捕捉されて、一言坂で戦いとなります。
※各写真はクリックすると拡大します。

兵力で劣る徳川家康は浜松城への撤退を決めて、殿(しんがり)は本多忠勝と大久保忠佐が受け持ちました。
しかし、徳川勢の陣形もままならず、武田勢の馬場信春は容赦なく突撃。
武田信玄の近習でもある小杉左近は、本多忠勝の後方(一言坂のさらに下)に先回りして鉄砲を撃ちかけました。
この時、本多忠勝は一言坂の下で待ち受ける小杉左近に敵中突破を掛けますが、小杉左近は道を空けるように指示して、本多忠勝の撤退を見逃したとされ、本多忠勝が小杉左近に対して感謝の言葉を述べたと言われています。

なお「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える歌は、この小杉左近が書いたと言われています。

また、磐田・見付町の町衆が徳川に味方して武田に抵抗したため、のちに徳川家康からいくつかの特権を与えらたそうです。

上記は一言坂から浜松方面の展望です。
こうして、徳川家康ら本隊は無事に天竜川を渡って、浜松城に撤退しました。

一言坂の戦いの石碑がある場所は、下記の地図ポイント地点となる、磐田市の旧国道1号の脇となります。

武田別働隊・山県昌景と井伊勢の戦い「仏坂の戦い」はこちら
二俣城と二俣城の戦いに関してはこちら

1572年12月19日に二俣城を陥落させた武田信玄(52歳)は、3日後の12月22日に二俣城を発します。
そして、大菩薩の坂を登ると、浜松城を素通りして、浜名湖に突き出た堀江城を目指すような進軍にと方向を変えて、三方ヶ原台地を通過しようとします。

これを見た徳川家康(31歳)は、何の抵抗もせず、武田勢の進軍を許すのは武門の名折れとし、家臣らの反対を押し切って、一矢報いようと浜松城から討って出る策を取ります。

三方ヶ原の戦い

1572年12月22日の午後、三方ヶ原の台地から、祝田の坂を下ろうとした武田勢を背後から襲えば少ない軍勢でも勝機があると考え、徳川家康は浜松城から追撃に出ます。

上記はその時、武田信玄の本陣があったとされる「根洗いの松」で、物見兵が松に登って見張りをしていたと伝わります。
また、根洗町の発祥地にもなっています。

下記はその本陣から続く、祝田の坂(ほうだざか)を示す石碑です。
ここから武田勢は坂を下ると徳川家康は考えたのです。

根洗いの松と祝田の坂石碑・根洗町の発祥地碑は、下記地図のポイント地点になる道路の両側にあります。
駐車場はありませんので、ご注意を。
バスの場合には浜松駅から「奥山」「渋川」行きで約40分、根洗バス亭下車ので徒歩1分です。

夕方には三方ヶ原台地に到着した徳川勢でしたが、武田勢は坂を下らずに既に「魚鱗の陣」を布いて待ち伏せしていました。
徳川勢は「鶴翼の陣」にて、夕方17時頃より戦闘が始まったと言います。
武田家・小山田信茂の投石隊が活躍した逸話も有名ですね。

兵力に劣る徳川勢は鳥居四郎左衛門、成瀬正義(成瀬藤蔵)、本多忠真、中根正照、青木貞治らが討死し、2時間程で甚大な被害となり敗走します。

徳川家康も討死寸前まで追い詰められ「我こそは家康なり」と、夏目吉信、鈴木久三郎は名乗り出て徳川家康を逃がすため身代わりとなり討死。
そんな中、徳川家康は成瀬正一(成瀬吉右衛門)、日下部兵右衛門、小栗忠蔵、島田治兵衛といった僅かな供回りのみで、暗闇の中、なんとか浜松城へ逃げ伸びました。
夜陰に乗じて浜松城に帰還した際には、供回りも少なかったため、殿の帰城と信じてもらえず、しばらく門が閉ざされたままで入れなかったとされます。
この敗走は、のちの伊賀越えと並び、徳川家康の人生最大危機とも言われ、浜松城に戻った徳川家康は、苦渋の表情の肖像画を描かせた通称「顰像」(しかみ像)が現在も残っています。
また、敗走した徳川家康は、恐怖のあまり馬上にて脱糞して浜松城に入城したとも言われていますが『三河後風土記』では一言坂の戦いの際だと指摘しています。

織田勢の平手汎秀も暗闇の中退却しましたが、土地勘も無く浜松城を見失い、隠れていたところを武田勢に襲撃されて命を落とします。

浜松城に逃げた徳川家康は、まだ落ち延びてくる家臣らの為に、全ての城門を開けただけでなく、城の方角が分かるよう「篝火」を焚きました。
これは、いわゆる空城計(くうじょうけい)となり、結果的に山県昌景・馬場信春らは「罠」と警戒し、浜松城の中に突撃するのを躊躇い、引き上げたのですが、俗説にすぎません。
また、暗闇の中、浜松城へ迫った武田勢は、犀ヶ崖の戦いとされる崖から多数の兵が落ちて亡くなったともされています。
徳川勢は、浜松城からほど近い、犀ヶ崖に「白い布」を架けて橋と見せかけたとされ、犀ヶ崖の底からは、転落死した武田兵の霊のうめき声が聞こえて来るようになり「布橋」と言う地名になりました。

なお、正確には三方ヶ原の戦いの主戦場はわかっていません。
恐らくは広範囲に渡ったものと推測致します。
野戦に強いと言われる徳川家康ですが、さすがに武田信玄の大軍相手では叶いませんでした。

現在の三方原墓園(浜松市北区根洗町)の駐車場北側に古戦場の碑(上記写真)がありますが、ここだと確定している訳ではありません。
場所は下記の地図のポイント地点となります。霊園の無料駐車場を利用可能です。
JR浜松駅からは遠鉄バスで「三方原霊園」下車。国道257号線沿いとなります。

一方で犀ヶ崖の戦いにおける古戦場としては、犀ヶ崖資料館(浜松市中区鹿谷町)があり、また戦の故事から浜松市に布橋という地名があります。
犀ヶ崖資料館は新しくなり遠州大念仏及び三方ヶ原の戦いに関する資料を展示しており、毎年7月15日には三方ヶ原合戦の死者を供養するために「遠州大念仏」という郷土芸能が奉納されています。

犀ヶ崖の戦いがあったとされる犀ヶ崖は現在小さな公園になっています。
下記の地図ポイント地点にその無料駐車場があり、約10台ほど止められます。

小さな公園ですが、犀ヶ崖には三方ヶ原の戦いを示す史跡がいくつかあります。

下記は本多忠真(本多肥後守忠真)の碑です。

崖の下を覗くと、確かに急峻な崖でして、落ちたら落命してもおかしくありません。
迎撃した徳川勢に対しては、穴山信君隊が対応したとされています。

あと、犀ヶ崖公園には、ねずみ小僧の墓もあります。
上記写真の右から3番目です。

上記写真がねずみ小僧の墓ですね。
あと、犀ヶ崖公園には資料館とトイレもありますので、安心してご利用頂けます。
浜松城からでも歩いて15分くらいのところです。
さて、その犀ヶ崖公園の近くには下記の石碑もあります。

上記は犀ヶ崖公園からちょっと北へ20mほどにある国道257号沿いの夏目次郎左衛門吉信旌忠碑です。犀ヶ崖のバス亭付近がちょっとした緑地になっています。
夏目吉信(夏目次郎左衛門吉信)は、浜松城の留守居役でありながら敗走の知らせを聞くと、20余騎を率いて徳川家康を警護しようとしたようで、やっとの思いで探し当てた徳川家康の身代わりとなって討死したとされます。

あと、もう1つ、また場所が違うところになりますが、平手汎秀の墓碑です。
織田家からの援将・平手汎秀は、当時、カゼを引いていたようで、敗走した際に稲葉山付近の農家へ潜んでいましたが「クシャミ」をしたため、武田兵に発見されて討ち取られたと言います。
下記がその平手汎秀の墓碑ですが、浜松駅から西側の方角になります。

平手汎秀の墓碑がある場所は、下記の地図ポイント地点でグランドホテル浜松がある西側の丘の上(稲葉山)となります。

三方ヶ原の戦いに勝利した武田勢は、刑部城(おさかべじょう)にて年越しますが、後方警戒として三方ヶ原台地上の前山・陣平にも陣立てしたとされます。

上記の史跡碑は細江町前山に建てられたもので、下記の地図ポイント地点となります。
駐車場はありません。

以上、三方が原の戦いをできる限り詳しく、写真とその地図も踏まえて掲載してみました。
最後までご高覧賜りまして、誠にありがとうございました。

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