連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第5回 『三河物語』「一言坂の戦い」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『三河物語』より「一言坂の戦い」です。

『三河物語』(上・中・下の3巻)は、大久保彦左衛門忠教(1560-1639)によって1620年頃に書かれた本で、大久保氏の功績を子孫に残すために書かれた家訓書です。
此書物、公界え出ス物ならバ、各々御普代衆之御中説・走り廻り之義をも、具に穿鑿繋して可書が、是ハ門外不出として、公界へ出事なくして、子共に持たせて、後之世に御普代之御主様之しらせん為に書置事なれバ、他人之事を書かず。然解、我が市名、又ハ我身之事を書かずハ、子共之合点もすミ申間敷けれバ、如此に侯。門外不出に候らヘバ、誰人も見ハ申間敷けれ共、若落散りて人も見申さバ、其時之為、如此に侯。各々御普代衆ハ、家々之中説・走り廻り之事を書立て、子立へ御譲り可有候。我等如此書候て、子共に譲り申。門外不出也。以上。
【大意】門外不出の書であり、公開するつもりもないため他家のことはあまり書いてない。第三者が見たら「大久保家の人々がかっこよく書かれすぎ」と思うかもしれないが、子孫に見せるための門外不出の本であるからそこまでは考えてはいない。

数行読んだだけでも分かるように、独特な表記(「譜代」が「普代」、「忠節」が「中説」、「子供達」が「子共立」)が多くて分かり辛い本です。漢字で考えずに、口に出して読んで考えるのがいいでしょう。

では、早速、「一言坂の戦い」について読んでみましょう。(「一言坂の戦い」についての説明は短く、鉄砲談義が延々と続きます。会話が多いので、脚本風に訳してみました。)

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【未来のお気軽訳】 元亀3年(1572年)、武田信玄が「今川領(駿河・遠江両国)は、天竜川を境として、東を武田領、西を徳川領と申し合わせた。大井川を境にするという話は全く身に覚えがない。大井川が境だと言うのであれば、実力行使(戦って、天竜川と大井川の間の地域を徳川から奪い取る)しかない」と言って、元亀3年、武田信玄は、遠江国に向けて出陣し、木原(袋井市木原)~西島(磐田市西島)に陣取ったので、浜松城から偵察隊が出陣し、「見付の原」(三箇野原)から木原・西島方面を見ると、武田軍が気付いて、ゆっくり、ゆっくりと近づいてきたので、誰彼となく「見付の町に火をつけて逃げれば、武田軍は道を知らないであろうから逃げられるであろう」と言い合って、見付の町に火をつけて逃げたのであるが、想定外に、武田軍は道をよく知っていて、武田の騎馬隊が「上の台」(梅酢ヶ原。磐田市国府台)へ馬に乗って登ってきて、その後、「一言坂」の下り口にまで迫って来たので、梅津はこれ以上防げない、押し寄せる騎馬隊に手のうちようがないと、「岩石」(岩だらけの道)ではあったが、馬に乗って下った。その時、大久保勘七郎忠核(ただざね)は、とって返して鉄砲を撃った。たった1、2間の距離(1間=6尺=1.8m)だったにもかかわらず、はずしたのである。この時の会話。

家康「なぜはずしたか分かるか?」

忠核「その件ですが、藤一郎殿が弓を持っておられたので、(外しても藤一郎殿が射抜くであろうと)力付けられて撃てたのです。たった1,2間の距離でしたが、慌てず、火薬も込めました。兎にも角にも、外したのは、私が臆病者だからです」

藤一郎「(外れはしましたが)忠核殿がとって返して撃って下さったので、我々はこうして無事、ここにいるのでございます」

忠佐(忠核の兄)「藤一郎殿、そのようなことは申されるな。(失敗した弟をかばって下さるのはありがたいが、謙遜めされるな。)藤一郎殿に勇気付けられなければ、弟はとって返さなかった。藤一郎殿らのおかげで(生きて帰って)ここにおられるのだ」

ここで話変って「どちらが弓懸(手袋)を先に外したか」という話になった。

忠佐「藤一郎殿が、弓の弓懸を外したので、儂も馬の弓懸を外したのだ」

藤一郎「忠佐殿、そうではござらぬ。儂は、一言坂の下り口で、忠佐殿が馬の弓懸を外したのを見て、儂も弓懸を外したのでござる」

忠佐「いやいや、藤一郎殿が、弓の弓懸を外したので、儂も馬の弓懸を外したのでござる」

この会話を聞いていた徳川家康は笑い、

家康「その件(どちらが先に弓懸を外したか)は、まず置いて、撃ち外した話に戻すぞ。忠核よ、お主は臆病者ではない。見付台から追い立られ、逃げてきて、息が上がってる時に、多分、筒(銃身)の中程に手をかけ、火皿の下を持って撃ったのであろう」

忠核「その通りでございます」

家康「そのように筒(銃身)の中程に手をかけ、火皿の下を持って撃てば、息を吸う時は筒先が上り、息を吐く時は筒先が下るものである。普通に息をしている状態と、逃げてきて息があがってる状態では、息の荒さが違うから、外れて当然である。そなたは決して臆病者ではない。そういう時は、両手で引金の下を持って撃てばよい。そうすれば、どんなに息が荒くても、筒先は動かないのじゃ。これ以後、そう心得よ」

《訳し終えて》

『三河物語』については誤訳が多い。ある話について、その訳を見ると人によって違うから、誰か1人が正しくて、他の人は間違っていると思う。(もしかしたら、正しく訳している人は一人もいないのかもしれない。)上の訳も他の方の訳とは異なっているので、正しいかどうか分からないし、内容的にも、両手で引き金の下を持って正確な射撃ができるのだろうか、反動に耐えられるだろうかと疑問に思う。(逆じゃないの? 両手で引き金の下を持ったから外したんじゃないの?)

『三河物語』に出てくる専門用語も難しい。ここでは「弓ゆがけ」と「馬ゆがけ」が出て来る。「ゆがけ(弓懸、弽、韘)」は弓を引く時に使う手袋で、騎射用のゆがけは薄い。ゆがけをはめることを「挿(さ)す」、脱ぐことを「外(はず)す」という。鉄砲を撃ち外した話から、「『外す』といえば・・・」とゆがけの話に転じたのだろうか? 戦場でゆがけを外すということは、「弓を射ない」ということであり、「逃げる体制を整えた」ということであって、先に外した方が臆病者であるので、「どちらの方が臆病者であるか?」と言い争いになったのか?

いずれにせよ、最大の功労者とされ、家康に「今日の働きは八幡神の如し」と大絶賛された本多忠勝が登場しないのは、大久保家の家伝書だから仕方がない。それに、大久保忠教や徳川軍にしたら、「敵に見つかったので逃げました」って恥ずかしい話であって、「敵をたくさん討ち取りました」って自慢できる話ではないので、載せない方が良いと判断したのかもしれない。

<写真1:三ヶ野台から西島・木原方面を見る。>

本多忠勝の功績は、「殿(しんがり)を務め、徳川3000人を無事帰還させたこと」だというが、私に言わせれば、彼の最大の功績は、

──撤退を決めたことである。

この後、三方ヶ原で、武田軍に徳川8000+織田3000=11000人で向かっていって大敗してるわけで、この時、3000人で戦っていたら、全滅していたかもしれない。

《おまけ:橋羽の妙恩寺》

<写真2:妙恩寺>

橋羽の妙恩寺には、「三方ヶ原の戦いに負けた徳川家康が妙恩寺に逃げ込んできた。住職は家康を天井裏に隠し、食事も差し上げた。後に家康は、感謝の意を込めて寺領を寄進し、寺紋を授けた」という伝説が残っています。

妙恩寺の住所は、静岡県浜松市東区天龍川町(天「竜」川町ではない!)です。妙恩寺はJR天竜川駅のすぐ近くにあります。家康は、三方ヶ原から浜松城を通り越して、なぜ天竜川まで行ったのか?

※ちなみに、寺紋は今川氏の家紋に似ていますが、よく見ると違います。徳川家康は、匿ってくれた上に食事まで出してくれたことに感謝していて、寺紋の○は皿、2本の横棒はお箸を図案化したものだそうです。

<写真3:身代わり地蔵>

上には上がいるもので、見付(磐田市)の身代わり地蔵は、三方ヶ原の戦いの後、家康は橋羽よりさらに遠く、天竜川を渡って見付まで逃げてきて、しかも火を放ったとあります。

橋羽の妙恩寺の話も、見付の身代わり地蔵の話も、「三方ヶ原の戦い」ではなく、その前哨戦の「一言坂の戦い」のことなのでしょう。両寺の伝承の「三方ヶ原の戦い」は、「家康と信玄の戦い」の総称なのでしょう。

分からないといえば、アイキャッチ画像(「天竜川御難戦之図」)。本多忠勝と武田信玄が戦ってる?

《これも「一言坂の戦い」に関係あり? (その1)》

<写真4:挑燈野>

挑燈野の由来 今から400年以上前の戦国時代の終わりの頃のことです。戦いに敗れ退却した徳川軍は、当時万能村といったこの辺りで、武田軍に追いつかれそうになりました。そこで、周囲の地形に詳しかった徳川家康は、夜になったことを利用し、提灯の明かりで武田軍を「ゆるぎ」とよばれる深田におびきよせました。ぬかるみに足を取られて動けなくなった武田軍は次々と討たれ、徳川軍は無事浜松へ戻ることができた、といわれています。この地が「挑燈野」と呼ばれるようになったのは、この出来事からで、その後多く飛ぶようになったホタルは、命を落とした武田軍の兵士の魂であると伝えられています。」(案内板)

※家康は「挑燈野」(静岡県磐田市上万能。一言坂から約1km西)で一矢報いて、「一言坂の仇を挑燈野で取った」ということです。深田に布を張って橋に見せかけるという犀ヶ崖と同じ「布橋戦法」を使ったとのことですが、この話は「一言坂の戦い」直後の話ではなく、武田軍の大将が武田信玄から武田勝頼に代わった後の話とも。また、ここで飛ぶホタルは源氏蛍や平家蛍よりも大型の「万能蛍」だそうです。(現在は絶滅?)
《これも「一言坂の戦い」に関係あり? (その2)》

<写真5:「天竜池田渡船の朱印状」(池田渡船場)>

戦国時代、天竜川には次々と渡船場が出来、権利をめぐって争っていましたが、徳川家康は、天正元年(1573年)に「天竜池田渡船の朱印状」を出し「池田の渡方」に渡船の独占権を与えました。

「御墨付きは、今から約430年前(1573年)、徳川家康が池田の渡船関係者に与えた天竜川渡船権の許可証です。武田軍が攻めてきた時、常に家康側の味方となって協力を惜しまなかったことから、与えられたとされています。これにより、天竜川の渡船権は、池田の渡船にかかわる人だけが持つようになりました。」(案内板)

天正元年(1573年)9月20日(「一言坂の戦い」は元亀3年(1572年)10月13日)の徳川と武田の戦いの時、池田の渡船関係者が、徳川軍を対岸に渡してから、舟を行興寺の西の「舟かくしの池」に沈め(一説に葦で隠し)、櫓を天白神社境内にあった「櫓かくしの池」に隠して、武田軍が天竜川を渡れないようにしたとのことです。「舟かくしの池」は、「豊田池田の渡し公園」に再現されています。(アイキャッチ画像の場所も池田でしょう。)

今回は分からないことばかりだ (>_<)

私の疑問に対する答えをコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。私の訳は間違ってるから、間違いを指摘してね。

元亀三年壬申之年、信玄より申被越けるハ、「天竜の河をきりて、切取らせ給へ。河東ハ某が切取可申と相定申処に、大炊河ぎりと仰侯う儀ハー円に心得不申。然ば手出を可仕」とて、申之年、信玄は、遠江ヘ御出馬有て、来原・西嶋に陣取給ヘバ浜松よりも駈出して、見付の原へ出て、来原・西嶋を見る所に、敵方是を見て、おつ取、おつ取乗駈けけれバ、各々申けるハ、「見付之町に火をかけて退く物ならバ、敵方案内を知るべからず」とて、火をかけて退きけるに、案之外に案内をよく知りて、上の台へ駈けあげて、乗付ける程に、頓て一言の坂之おり立てにて乗付けるに、梅津ハ、しきり乗付られてならざれバ、岩石をこそ、乗りおろしける。其時、大久保勘七郎ハ、とつて帰して鉄炮を打ちけるに、一、二間にて打はづす。其時、上様之御状にハ、「勘七郎ハ、何として打はづして有ぞ」と被仰ける時、「其儀にて御座候。都筑藤一郎が弓をもちて罷有によって、其を力と仕て放し申つる。纔一、二間ならでハ御座有間敷。定てくすりハかゝり可申。菟角と申内に、我等が臆病ゆへに打はづし申たる」と申上けれバ、藤一申ハ、「勘七郎が立とゞまりて打申しゆへに、我等ハ料簡なくして罷り有つる」と申けれバ、兄之大久保次右衛門が申ハ、「藤一、左様に御取合ハ被申そ。御身を力とせずンバ、悴が何とて立とゞまらん哉。方々の故に有つるぞ」と申せバ、「御方之弓ゆがけをはづし給ふを見て、我も馬ゆがけをはづしたる」と申せバ、藤一申ハ、「次右、左様にハなし。坂之おり口にて、御身の馬ゆがけをはづし給ふを見て、我等も弓ゆがけをはづしたる」と申せバ、「いやいや、御身の弓ゆがけをはづしたるに心付、我もゆがけをはづした」と申バ、上様ハ御笑わせ給ひて、「其義ハまづおけ。勘七郎、汝があやかりと云にハあらず。見付の台より追立られて退きたる間、精気のせきあげたる処に、定て汝ハ鉄炮を中程に手をかけて、火皿の下を取て放したるか」。「御意のごとく、左様二仕申」と申上ければ、「左様に可有。中程に手をかけて、火皿の下をもちて放せバ、引息にてハ筒先が上り、出る息にてハ筒先が下る物なり。殊更、常の時と追立られし時の息ハ変る物にて有間、はづれたるも道理なり。汝が臆病と云処にハあらず。何時も左様なる時ハ、諸手ながら引金の下を持ちて打物なり。何と息を荒くつきたり共、筒先ハくるハざる物にて有ぞ。以来ハ其心侍可有」と御意なり。

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第4回 『濱松御在城記』「一言坂の戦い」
連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第6回 『直政公御一代記』「井伊直親」
戦国未来の連載シリーズ一覧
三方ヶ原の戦いと一言坂の戦い~史跡の写真や地図・駐車場情報も
大久保忠教と大久保忠員~徳川本陣を守った三河物語の作者・大久保彦左衛門
浜松城(引馬城)の観光詳細はこらちです

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