御宿友綱と御宿勘兵衛の活躍と駿河・千福城


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駿河葛山氏の一族で武田家臣として活躍した御宿友綱と、大阪夏の陣にて徳川家康にも認められた武勇の士・御宿勘兵衛をご紹介させて頂きます。

御宿友綱と御宿勘兵衛

御宿友綱(みしゅく-ともつな)は医者でもあり、のち武田信玄が西上途中で病となると、治療に当たった武将でもあります。
母は武田譜代家臣・跡部泰忠の妹とされています。
花倉の乱にて御宿氏は敗れた玄広恵探に味方したためか、1537年に甲斐の武田信虎の元に赴いて武田家臣となっていますので、その時に父が娶ったものと推測できます。

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そして、御宿友綱の正室は武田の譜代家臣・長坂光堅の娘で、御宿友綱の妹は、小山田信茂の正室、駿府城代・武田信堯の正室となっています。
そのため、のち今川家が衰退して葛山氏が武田に臣従した頃には、葛山本家を凌ぐ力を御宿友綱が得ていたのも納得いきます。
こうして、葛山城主に武田信玄の子・葛山信貞が就任した際に、御宿友綱(御宿監物友綱)が千福城主として葛山領の統制を実質的に任されるに至ったのでしょう。

御宿氏と言う姓は、1193年に源頼朝が富士野藍沢にて鷹狩りをした際に、宿泊した館が葛山氏一族の屋敷であったことから「御宿殿」と呼ばれ、その子孫に御宿氏を称する支流が出たと事が由縁です。

1580年12月、御宿友綱(御宿監物友綱)は隠居して、子の御宿政友(みしゅく-まさとも、御宿勘兵衛政友)が家督を継承しました。
しかし、すぐに父から勘当されたようで、北条家の重臣。松田憲秀を頼っています。
ちなみに、この御宿政友(御宿綱秀、御宿勘兵衛)は、幼い頃はどうも人質として小田原城主・北条氏康のもとにいたようですので、北条家も接点はあったようです。

1582年に武田が滅亡すると、父・御宿友綱と次男・御宿政綱も北条家を頼り、板部岡江雪斎の家臣として御宿政綱が22貫文と見受けられます。
北条滅亡後は、徳川家康の6男で阿茶局が産んだ松平忠輝に仕え、父・御宿友綱は1606年3月21日に死去し、御宿政綱は1623年に死去しました。

一方、嫡男・御宿政友(御宿勘兵衛政友)は優秀な武将だったようで、北条滅亡後は徳川家に仕えて結城秀康の重臣として1万石となりました。
しかし、結城秀康の死後、福井藩主を継いだ松平忠直と不和となり出奔・浪人したとされています。
もっとも、この松平忠直は重臣とのトラブルが多く、1613年には越前騒動となり、徳川家康・徳川秀忠が直接裁定して終息させています。

その後、御宿政友(御宿勘兵衛政友)は福島正則に仕えたともありますが、1614年、豊臣秀頼の呼びかけに応じて大阪城に入りました。

大阪冬の陣では大野治房を補佐し、塙直之、米田是季らと共に武功を上げ、真田丸にも入って真田幸村(真田信繁)と共に戦ったとされています。

甲冑は白糸の鎧で、兜は梨子打ち烏帽子の冑。
紋所は武田菱で、五色の幣を馬印としていたとされるため、この御宿政友(御宿勘兵衛政友)は武田信玄の6男・葛山信貞の子ではないかとする説もあります。
葛山信貞には、葛山城主・葛山氏元の次女・おふちが1571年に正室となっていますので、葛山信貞が武田滅亡時に自刃する1582年までに、子の1人や2人いてもおかしくはないです。

大阪夏の陣に際して、大坂城の武将名簿を見た徳川家康は「大阪方の浪人衆の中で、武者らしいのは、後藤又兵衛と御宿勘兵衛だけだ」と語ったといわれますので、御宿政友(御宿勘兵衛政友)のそれまでの武勇が優れたものであったのか伺う事ができます。

御宿政友(御宿勘兵衛政友)は奮戦するも、天王寺・岡山の戦いの際に、岡山口で松平忠直の家臣・野本右近に討たれました。
一説によると享年は49ともされています。
なお、松平忠直は奇しくも浪人する前の主君であり、野本右近も旧知の仲でしたが、同じく真田幸村(真田信繁)も松平忠直の家臣・西尾宗次に首を執られたと言う訳となります。

千福城

千福城(せんぷくじょう)は葛山氏によって築かれた支城のひとつで平山城とも言い、葛山備中守の居城だったとされます。
その後、戦国時代の1572年頃には、葛山一族で武田重臣になっていた御宿友綱(御宿監物友綱)が千福城主となっており、子の御宿政友(御宿勘兵衛政友)も城主を務めたと考えられています。
御宿友綱(御宿監物友綱)は、葛山城主となった武田信玄の6男・武田信貞(葛山信貞)に代わって、葛山領の支配を代行しました。

千福城の縄張りは武田家特有の丸馬出がなく北条家の設計に類似する点が多いようで、北条氏政の文章には千福城の拡張工事に触れて「松田憲秀が言い訳ばかりでちっとも働かず、清水新七郎に下知したら快く引き受けてくれた」と記載されているそうです。
そのため、北条家が改修したと言って良いでしょう。

清水新七郎と言う武将は、下田城主・清水康英の嫡男です。

千福城の麓には、城主の屋敷跡と考えられている普明寺があり、その本堂右手の墓地から山に入る登山道があります。
山頂部の標高は約200mで、麓の普明寺との比高は42mとなり、規模的には葛山氏より大きいとの事ですが、西側は東名高速により失われています。

葛山氏が武田家に臣従すると、甲斐に運ばれる塩の保管地点にもなったようで、塩蔵城とも呼ばれています。
下記の地図ポイント地点は、普明寺の駐車場となります。

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コメント

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  • コメント (2)

    • 御宿真由美
    • 2016年 6月 03日

    私が両親から聞いた話では、「御宿という名字は、源頼朝から賜った。」との事です。
    富士の巻狩りの際にお世話をし、とても気に入って頂きそのお礼に「御宿」という名字を頂いたのですって。

    • 高田哲也
    • 2016年 6月 03日

    御宿さま、貴重な情報、誠にありがとうございます。
    また、何かございましたら、色々とご教授賜りますと幸いです。
    また、秋のお祭りでは参加させて頂く予定です。
    どうぞよろしくお願い申しあげます。

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