三好長慶~戦国時代最初の天下人は戦と和睦の連続だった?


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戦国時代において最初の天下人とも言われる知られる三好長慶(みよし-ながよし)は、阿波・芝生城主である三好元長の嫡男として、1522年2月13日に生まれました。

戦国時代1560年の絶世期に、三好長慶は山城・丹波・大和・和泉・淡路・讃岐・播磨を制し、近江・河内・伊賀・若狭まで影響力を伸ばした程の有力大名であり、天下では三好長慶に立ち向かえる勢力は、関東・小田原城の北条家くらいかといわれたほどです。

しかし、三好長慶の嫡男・三好義興や、弟である三好実休、安宅冬康、十河一存たちの相次ぐ死から、1561年以降は一気に衰退の道を辿ります。
三好長慶の戦歴を見ていくと、同じような相手と戦い、勝利ししては和睦し、また戦うと次は負けか和睦、というように「合戦」と「和睦」を繰り返していることに疑問を感じます。
どうやら三好長慶は、非常に寛大な武将だったとも言えるのではないでしょうか?
その反面、決断力には欠け、非情になりきれておらず、一説にはうつ病(鬱病)でもあったと言われています。
もし、三好長慶に織田信長のような非情さも兼ね備えていたら、天下はいち早く平定されていたのかもしれません。
三好長慶はそれほどの英雄でもあると存じます。

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父を一族の策謀で殺される

父・三好元長は細川晴元の重臣で、1526年に細川晴元に協力して挙兵すると、室町幕府の管領を巡って煮え湯を飲まさていた管領・細川高国を京都から追放します。
そして、足利義維を立て、堺に公方府を開きました。
その後、再起をはかった細川高国を滅ぼすも、その2ヶ月後には忠誠心を疑った細川晴元の策謀により、一族の三好政長、木沢長政らが扇動する本願寺の一向一揆衆10万に包囲され、堺の顕本寺(法華宗)にて、1532年6月20日に自害して果てました。(享年32歳)

この時、三好長慶はわずか10歳前後です。

詳細が定かでない部分もありますが、母と共に阿波に戻っていた三好長慶(11歳)は、1553年6月20日、勢力が大きくなり制御不能になっていた一向一揆と細川晴元の和睦を斡旋します。
この直後に三好長慶は元服したようで、細川晴元の家臣に列しました。

父の所領である河内十七箇所を奪還

ここから先の三好長慶は三好政長、三好長政らの一族と組んだり、戦ったり、和睦したりを繰り返していますが、17歳の1539年には2500人を率いて石山本願寺の後ろ盾も得て入京しています。そして、摂津の守護代を任されると、摂津・越水城を居城とし、室町幕府に出仕しました。
1540年11月22日(諸説有)には、丹波・波多野稙通(波多野秀忠)の娘を正室に迎えています。

1541年9月、まずは父の仇であり、細川晴元に反逆した木沢長政を太平寺の戦いで討ち取ります。
ここからは河内の守護代である遊佐長教とも争ったり、協力したりを繰り返しますが、この頃には、すでに三好長慶の実力は石山本願寺の本願寺顕如からも一目置かれた存在となっていました。

1546年8月、細川晴元の命を受けて堺にて将軍・足利義晴、遊佐長教、畠山政国、細川氏綱と戦いますが、包囲されて不利となると三好長慶は軍を解体して撤退。
しかし四国から三好実体、安宅冬康、十河一存ら弟たちが援軍として駆けつけると逆転し、足利義晴は近江に逃亡し、将軍職を足利義輝に譲りました。
そして、三好長慶は摂津を奪い返しています。

1547年には遊佐長教、細川氏綱と戦い、7月21日には舎利寺の戦いに勝利するもまた和睦し、離縁していた前妻のあとにと、遊佐長教の娘を継室として迎えています。

1548年、三好長慶が26歳の頃に、いよいよ父の旧領であった河内十七箇所の奪還の機会が訪れます。
三好政長討伐の許可が出なかったことから、細川晴元から離反した三好長慶は、細川氏綱側について遊佐長教や細川氏綱と組み、いよいよ細川晴元、三好政長、その子・三好正勝と戦うことになるのです。
ここで初めて「長慶」という名を名乗ったといわれています。
江口城の戦い(江口の戦い)にて見事勝利し、父の仇である三好政長を討ち取ります。
そして河内十七箇所を遂に奪還し、摂津を平定すると、事実上、細川政権は崩壊し、細川晴元、三好政勝、将軍・足利義輝は近江坂本へ逃亡したことで、三好長慶の政権となりました。

この時、三好長慶は徹底的に細川晴元や足利義輝を追撃でもしていれば、滅ぼす事もできたでしょうが、やはりここでも和睦し、1550年以降は将軍が不在となった京都の治安を守り、公家の所領などを警護したと言われています。
1551年には、二度も暗殺の危機に瀕し、三好長慶はかろうじで助かりますが、遊佐長教は滅多刺しにされています。
7月、相国寺の戦いで将軍・細川晴元勢を破りますが、六角義賢の仲立ちでまたも和睦。

こうして足利義輝は将軍として京に戻り、管領は細川氏綱が譲り受け、政治の実権に関しては三好長慶が握るという「三好政権」が誕生したのでした。

三好長慶は細川家家臣から将軍家の直臣となり、足利義輝や細川晴元、三好政勝らとの戦いや和睦が続き、信貴山城を拠点として1559年に大和も制すると、1560年には38歳で相伴衆に任命されています。

その後、三好長慶は京に近い芥川山城を嫡男・三好義興に譲り、自らは本拠地である四国に近い飯盛山城へと移りました。

三好家の衰退

1561年に弟の十河一存が亡くなり、1562年にも三好実休が討死し、1563年には嫡男・三好義興が22歳の若さで病死すると、栄華を誇った三好長慶の勢力は弱体化します。
配下で武功を挙げてきた松永秀久の策謀で、さらに弟・安宅冬康も謀殺してしまい、1564年7月4日には、三好長慶も病死しました。(享年43歳)

三好家は十河一存の子・三好義継を養子にし継がせますが、織田信長と松永久秀によって攻められ、1573年に三好本家は滅びます。

まとめ

三好長慶の印象としては、とにかく同じ勢力と戦争と和睦を繰り返していると言う事で、珍しいのではないでしょうか?
摂津の国衆や強力な阿波水軍と四国勢を活用しながらも、非情に徹しきれなかった点が、真の天下人となる織田信長と比べると思慮が足りなかったと評価されているようです。
しかし、激動の戦国時代に、足利将軍家を敵にまわし、畿内の支配者として君臨した三好長慶は、やはりただ者ではないです。
ただし、本当に、戦の連続であり、三好長慶を調べつくすには、かなりの知識も必要となり難しい武将でございます。

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