森可成 攻めの三左と呼ばれた槍の名手

森可成(もりよしなり)は1523年に尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)で生まれた。
父は森可行(もりよしゆき)で、祖父・森可秀が1528年に、小谷城付近で討死し、家督を継いで美濃の土岐氏に仕えた。
この頃の土岐家は、斎藤道三が頭角を現していた頃である。
母は青木秀三の娘(または大橋重俊の娘)。

1542年、斎藤道三が土岐頼芸を追放すると、父・森可行は密かに織田信秀を訪ねては度々赴き誼を通じ、1554年までに子の森可成と共に、織田信秀の子・織田信長に仕えた。
父は既に高齢だったためか、織田家の家臣になってからは森可成が家督を譲られたようだ。


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正室は、えい(妙向尼、林通安の娘)。
六男三女をもうけている。

妙向尼

尾張下4郡守護代・織田信友が、尾張守護・斯波義統を殺害すると、1555年、織田信長は討伐の為、清洲城を攻めた。
この時、森可成は敵の大将・織田信友を討つ功績を挙げた。このように槍の名手で武勇高く、坂井政尚や蜂屋頼隆ら美濃衆として織田信長の元で活躍。

1556年4月、斎藤道三が子の斎藤義龍から攻められると、斎藤道三の娘・帰蝶を正室としていた織田信長は援軍を出し、森可成も参戦。
織田勢の退却中に、森可成は千石又一と戦い肘を負傷したが、無事織田信長を退却させた。
1556年8月、林秀貞、柴田勝家らが織田信行を奉じて織田信長に反旗を翻すと、稲生の戦いで林勢に斬り込み獅子奮迅の活躍をした。

1558年7月、尾張上4郡の守護代で織田信安(岩倉城主)との浮野の戦いでは、森可成が先陣を務め、劣勢も奮戦し勝利。
1559年、同じく織田信長に仕えていた前田利家が拾阿弥を殺害。柴田勝家や森可成らが助命嘆願し、前田利家は浪人

1560年5月、桶狭間の戦い今川義元勢の四宮左近を討ち取った。なお、元織田家家臣で今川勢に加わっていた山口教継、戸部政直が織田家に内通していると流言させ、両名が今川義元によって手討ちとなる策を成功させている。
今川家から離反した松平元康(徳川家康)が清洲同盟にて織田信長と同盟を結ぶと、美濃への侵攻を開始。
1560年8月、織田信長は西美濃へと侵攻し、森可成らは長井衛安、丸毛兵庫ら1000の兵と戦い、柴田勝家らが横槍して長井勢を崩した。
 
1561年5月、再び西美濃へ侵攻すると、長井衛安、日比野景直ら6000に対して織田勢は1500で森部に布陣。
戦力的に不利であったが、足場の悪い泥地へ敵を誘うと、森可成は柴田勝家と共に前面に出て奮闘し、長井衛安、日比野景直を討ちった(森部の戦い)。
この森部の戦いで「頸取足立」と勇名高い足立六兵衛の首を取った前田利家は帰参を許されている。


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1564年夏、美濃に攻め入り、岸信周の堂洞城を攻略。追撃した斎藤龍興長井道利も破った。
この恩賞として、森可成は美濃烏峰城主となった。のち、改築すると金山城に改名している。

1567年、かねて内応を打診していた西美濃三人衆(安藤守就稲葉良通氏家直元)が織田家に下った。森可成の手柄。

1568年、三好三人衆の謀叛(永禄の変)で討死した第13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭が、織田信長を頼り美濃を訪れ、織田家は足利義昭を奉じて上洛開始。
9月11日、六角義賢の近江箕作城を攻撃した(観音寺城の戦い)際に、森可成は竹邊源八等と共に先陣を務め、六角家を下し、織田信長は9月26日に上洛を果たした。
上洛後すぐに三好三人衆の山城・勝竜寺城を攻め、城主・岩成友通を降参させている。
また摂津・芥川山城、小清水城摂津・池田城なども落とした。
上洛後は京都周辺の寺社や堺の会合衆などに宛てた文書も多く発見されており、織田家の重臣として政務にも当たっていたことが伺える。


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1570年4月25日、朝倉義景を攻めるため、越前・天筒山城を攻めに参加し攻略。
金ヶ崎城と疋田城も落とした。
森可成の長男・森可隆は初陣を飾ったが深入りし討死。享年19。
その後、浅井長政が織田信長に反旗を翻す姿勢を示すと、羽柴秀吉(豊臣秀吉)を殿(しんがり)に、織田勢は撤退を開始。森可成は朽木谷朽木元綱に対し、京都帰還の協力を依頼している。
6月26日、姉川の戦いで森可成は第5陣で布陣。背後に佐久間信盛、織田信長を置き、浅井家の先鋒・磯野員昌の進撃を阻止した。
9月、摂津で石山本願寺本願寺顕如が蜂起(野田城・福島城の戦い)。
織田勢は鎮圧に向かうも、背後から浅井・朝倉連合軍が挙兵し、森可成は琵琶湖西岸、比叡山の脇にある宇佐山城に籠り奮戦。
9月16日、局地的な緒戦で勝利して、朝倉景鏡勢を追い返した。
しかし、朝倉・浅井の連合軍は20000の大部隊となり、9月20日、朝倉勢の山崎吉家、阿波賀小三郎、浅井勢の浅井玄蕃允、浅井長政らと交戦。
織田信長の弟・織田信治、近江国人の青地茂綱が討死し、森可成も討死した。享年48。(宇佐山城の戦い)

宇佐山城は残兵1000が守り通したと言う。

下記は近江・坂本城の城下にある森可成の墓で、聖衆来迎寺にある。

森可成の墓

1571年5月12日、父・森可行も金山城にて死去。享年78。


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僅か13歳の2男・森長可(もり ながよし)が家督を継いだ。
晩年の織田信長の小姓として本能寺にて戦死した事で知られる森蘭丸(森成利)、森坊丸(森長隆)、森力丸(森長氏)は森可成の3男、4男、5男である。

譜代の家臣は下記の通り。

各務元正、林為忠、林通安、大塚丹後守(大塚次右衛門)、武藤兼友

尾張・末森城 織田家と稲生の戦い
森長可~武勇から「鬼武蔵」と称され槍術が得意だった武将
森坊丸とは~森長隆も本能寺の変にて
森蘭丸~将来を嘱望された織田信長の小姓
氏家直元(氏家卜全)~西美濃三人衆~美濃国人衆の中で最大の勢力
磯野員昌~織田勢に肉薄した近江の猛将と磯野行尚
摂津・池田城 池田信正・池田勝正・荒木久左衛門(池田知正)
観音寺城の登城記~六角高頼と日本屈指の観音寺城の歴史
可成寺 森可成 森蘭丸 森坊丸 森力丸の墓

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