毛利新助(毛利良勝)と毛利長秀(毛利秀頼)とは 織田家の毛利さん


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毛利新助(もうりしんすけ)は、織田信長の馬廻りとして仕えた織田家の家臣。毛利良勝(もうりよしかつ)、毛利新介良勝、毛利新左衛門尉とも言う。
出自や生年は不詳で、織田信長の小姓だったとする説もある。

1554年、織田信友が斯波義統を殺害した際に、その子供を毛利新助が預かったとされる。

1560年、桶狭間の戦いの際、今川義元に一番槍をつけた服部一忠が、膝を斬られた際に、助ける形で助太刀すると、毛利新助(毛利良勝)は今川義元の首を取ると言う値千金の功名を挙げた。なお、この時、今川義元に指を噛み切られたとも言われている。

のち、本陣と前線部隊の間を行き来したり、織田信長を直接護衛する「黒母衣衆」の1人となっている。
ちなみに、前田利家は赤母衣衆であった。

その後も、織田信長の旗本部隊として数々の戦いに加わり、武田勝頼相手の甲州攻めにも参加したが、桶狭間のあとは目立った活躍は記録されていない。

1582年6月、明智光秀による本能寺の変の時は、織田信忠を守って二条城にて明智勢に抵抗したが討死した。

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毛利長秀

毛利新助(毛利良勝)の子とされるのが、毛利長秀については下記の通りだ。
初名は毛利長秀で、のち毛利秀頼と改名した。
生年は不明で、出自に関しては、毛利新助が預かった斯波義統の子を養子にしたとする説もある。

毛利新助同様に、桶狭間の戦いで活躍すると、赤母衣衆に抜擢された。

1569年、伊勢大河内城攻めや、石山本願寺との戦いでも戦功を挙げた。

また、松永久秀が最初の謀反を起こして降伏した際、明け渡された多聞山城の受け取りに赴き、城番も一時務めており、頭角を現す。

その後は、織田信忠の家臣となり、甲州攻めにおいては岩村城攻めと、仁科盛信高遠城の戦いで戦功を挙げ、高遠城主となった。
その3ヶ月後に、本能寺の変で織田信長が横死すると、武田旧臣の反乱を恐れて尾張に逃亡。
高遠城は、下条頼安が掌握した。

その後は、豊臣秀吉の配下に加わり、徳川家康との小牧・長久手の戦い黒田官兵衛との九州征伐、北条氏直小田原征伐などにて軍功を挙げる。
徳川家が関東に入ると、南信濃の飯田城主として返り咲き7万石となる。

なお、太閤検地後には10万石の大名となり、1588年、豊臣姓を下賜されている。

1592年、文禄の役では肥前名護屋に在陣するに留まった。

毛利新助は1593年に死去。

遺領は、嫡男・毛利秀秋は1万石のみで、娘婿・京極高知が9万石を継承するよう命じられている。

ちなみにこの毛利秀秋は、関ヶ原の戦いでは石田三成の西軍に味方し、豊臣秀頼に仕えると大阪夏の陣で討死にした。

京極マリアの子である京極高知は1594年には10万石となり、関ヶ原の戦いでは徳川勢として大谷吉継と戦い、丹後・宮津城主12万3000石となった。

服部一忠(服部小平太)~桶狭間にて今川義元に一番槍をつけるも豊臣秀次事件に連座した運命
今川義元は領国経営に優れた優秀な戦国大名だった
桶狭間の戦いとは~桶狭間はこんなところだったよ~桶狭間古戦場跡

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