連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第23回 「宗良親王御墓碑文」


スポンサーリンク
スポンサーリンク

古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、「宗良親王御墓碑文」(「宗良親王宝篋印塔碑文」とも)です。龍潭寺十世獨叟法達が書いたので、「獨叟和尚誌碑文」ともいいます。

遠江井伊氏の歴史を語るポイントは、
①平安時代:初代・井伊共保の井中出生譚
②鎌倉時代:御家人「井之介」(「日本八介」の1人)として活躍
③南北朝時代:宗良親王を擁して南朝(吉野朝)方
④戦国時代:井伊谷井伊氏(直平─直宗─直盛─直親─直政)
の4点だと思います。2017年のNHK大河ドラマが「おんな城主 直虎」に決まって以来、その舞台である井伊谷には、遠江井伊氏の史跡散策の観光客が押し寄せています。とはいえ、井伊谷には戦国期の遠江井伊氏に関する史跡よりも、南北朝時代の宗良親王に関する史跡の方が多いのです。

 スポンサーリンク


※井伊家の歴史は1000年。「遠江井伊氏600年、近江井伊氏(彦根井伊氏)400年」という。

 スポンサーリンク


<写真1:井伊谷宮

 

井伊谷宮へ初詣に行ってきました。

井伊谷宮は、明治時代に、龍潭寺境内の北半分を使って建てられた神社で、ご祭神は宗良(むねなが/よし)親王です。「建武中興十五社」の1社で、ご朱印をいただくのは、「建武中興十五社御朱印帳」(建武中興十五社会発行)や井伊谷宮のオリジナル御朱印帳(井伊谷宮発行)がよろしいかと。

※後醍醐天皇の御子の「良」は、井伊谷では「よし」と読みますが、井伊谷宮をはじめ、建武中興十五社では「なが」と読むことにしています。

 

<写真2:井伊谷宮案内板>

 

御祭神宗良親王(後醍醐天皇第四皇子・宮内庁調)は、今より約六百五十年前の南北朝時代に一品中務卿征東将軍として、この地を本拠に五十余年の間、吉野朝のために御活躍になられました。
その間遠江 駿河 三河 甲斐 信濃 越後 上野 美濃等に軍を進められ、信濃宮・上野宮・越中宮と尊称され、晩年再びこの地を訪ねられ元中二年八月十日御年七十三才にて薨去せられました。御墓は本殿背後に西に向ってたてられており宮内庁所管地であります。
明治元年明治天皇より当宮創立の勅旨が仰出され明治五年二月十二日御鎮座、明治六年六月九日勅裁を以って官幣中社に列せられました。親王は武のみならず和歌に秀で、その苦難な御生涯の中であっても歌集「李花集」をのこされ又、準勅選和歌集「新葉和歌集」の編纂など文化の面でも功績をのこされました。親王のどんな逆境に陥っても不撓不屈初志を貫き、希望を捨てずひたすら正義のために一生を捧げられた御精神、御遺徳は多くの人達に慕われ学問・心願成就・開運の神と信仰され尊ばれております。

例祭日 九月二十二日

 

<写真3:井伊社>

 

拝殿で「一人でも多くの人に記事を読んでもらえますように」と祈った後、宗良親王御墓に向かいました。その途中で井伊社を発見! 彦根市の井伊神社(ご祭神:井伊八幡こと井伊共保)とは異なり、ご祭神は、宗良親王を擁して戦った井伊道政・高顕親子です。

※彦根市の井伊神社の元宮と思われる井伊谷の井伊神社は、二宮神社に合祀されている。

 

<写真4:井伊社案内板>

 動乱の南北朝時代(西暦一三三〇~一三九〇年頃)当時の有力豪族であり井伊直虎のご先祖に当たる井伊道政公とその息子高顕公は、井伊谷に来訪された宗良親王様を奉じて尽力しただけでなく、親王様と駿河姫(道政公の娘、重子(しげこ)姫)との間に尹良(ゆきなが)親王を授かるなど、吉野朝(南朝)と非常に深い関わりを持ちました。

 その縁と井伊谷宮御鎮座に関わる井伊家の多大なる功績により、明治八年井伊道政公・高顕公を御祭神として「井伊社」が創建されました。

※神社の境内にある小社や小祠を「境内社」という。境内社には、「摂社」(せっしゃ。ご祭神は、本殿に祀られているご祭神と関係あり)と「末社」(まっしゃ。

<写真5:宗良親王御墓(入口)>

「宗良親王御墓」は、普段は入れませんが、正月の数日間と命日(旧暦8/10を新暦になおした9/22の例祭日)には、上の写真のように扉が開かれて、中へ入ることが出来ます。

入り口に案内板がありました。先の「井伊社」の案内文にしても、この「宗良親王御墓」の案内文にしても、文中に「井伊直虎」が出てくるのは大河効果ですね。

<写真6:宗良親王御墓(案内板)>

 明治時代に入って間も無く、明治天皇は全国の御陵墓が荒廃著しい事を憂い、その修繕整備をお命じになれれました。それと共に王政復古の象徴として吉野朝(南朝)方を支えた貢献者を祀る神社を創健するよう勅命を下されました。
 これに伴い、後醍醐天皇皇子宗良親王薨去の後、およそ五百年に亘り代々その菩提を弔ってきた井伊家の当主、井伊中将直憲(彦根藩最後の藩主)が、親王を御祭神とする井伊谷宮の創健と親王御墓の修繕を願い出たところ、井伊家の祖道政公と親王との特別な由緒をもって許可され、いずれもほぼ井伊家の負担にてなされました。
このようにかつて井伊直虎を輩出した井伊家は井伊谷宮とも深い関わりを持っています。

 

<写真7:宗良親王御墓>

<写真8:宗良親王御墓(正面)>

右側:元中二乙丑

中央:冷湛寺殿

左側:八月十日

<写真9:宗良親王御墓(左側面)>

恭惟
冷湛寺殿宗良一品親王
香火之地者蓬州井伊保
萬松山龍潭禪寺也予曩
祖信州伊那郡神之峰城
主知久四郎左衛門尉信起
令其娘爲乳母官而仕宗

<写真10:宗良親王御墓(裏面)>

良 御子兵部卿尹良一
品親王歳尚矣尹良王
於同郡大河原御傷害之
時以
南帝御授與之御旗錦御
母衣賜信起爾來嫡家遞
代備眉目焉今憶
上命示諭之洪恩難報故

<写真11:宗良親王御墓(右側面)>

恭表信義造鐫賓塔一
基以備千万世之不朽者
也矣

寛保第二壬戌歳
八月十蓂
信起十八代之孫信州伊那郡阿島住
知久監物源頼久造之
現住龍潭比丘獨叟誌

 

損傷が激しい部分があって、拓本でないと読めませんね。

では、「宗良親王御墓碑文」を読んでみましょう。

【読み下し文】

恭(うやうや)しく惟(おも)ふに、冷湛寺殿・宗良一品親王、香火の地は、遠州井伊保萬松山龍潭禅寺なり。
予の曩祖(のうそ)、信州伊那郡神之峰城主・知久(ちく)四郎左衛門尉信起(のぶおき)は、其の娘を乳母の官として、宗良御子・兵部郷尹良一品親王に仕へしめ、歳尚し。
尹良王、同郡大河原に於て、御傷害の時、南帝より御授与の御旗、錦の御母衣(みほろ)を以て信起に賜はる。
爾来、嫡家、遞代(ていだい)、眉目(びもく)焉(これ)を今に備へる。
憶(おも)ふに、上命示諭の洪恩、報ひ難し。
故に恭しく信義を表し、宝塔一基を造鐫(ぞうせん)し、以て万世の不朽に備ふ者なり。
寛保第二壬戌年八月十蓂
信起十八代孫・信州伊那郡阿島住、知久監物源頼久、之を造る。
現住・龍潭比丘・獨叟、誌(しる)す。

【未来のお気軽訳】 宗良親王御墓碑文

恭しく思うに、「冷湛寺殿」こと宗良親王を荼毘に復した場所は、遠江国の井伊保(井伊領)にある万松山龍潭寺である。(「香火」は「香華」の誤りか?)
私(知久頼久)の祖先である神之峰城(長野県飯田市上久堅柏原(神ノ峯))の城主・知久信起(敦貞、祐超)は、その娘を尹良親王の乳母として、宗良親王・尹良親王親子に仕えた。(知久敦貞の娘は、尹良親王の乳母だというが、生母とする説もある。しかしながら、井伊谷では、尹良親王の生母は、井伊道政の娘・駿河姫(重子)とされているので、言及は避ける。)
尹良親王が、大河原(長野県下伊那郡大鹿村大河原)で亡くなられた(大河原の民家に入って自害された)時、祖父・後醍醐天皇より拝領した旗と錦の御母衣が知久信起に渡された。この時以来、知久本家では、歴代に渡って、この誉れを伝えている。
今思えば、宗良親王から受けた恩は、報えないほど大きい。それで、恭しく信義を表すために、宗良親王の宝篋印塔を一基を造り、万世に伝えることにする。
寛保2年(1742年)8月10日(宗良親王の命日)
知久信起18代孫(阿島知久4代)にして阿島陣屋(長野県下伊那郡喬木村阿島)に住んでいる知久頼久がこの宝篋印塔をたてる。
龍潭寺10世・獨叟和尚が碑文を書く。

(つづく)

 

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
第22回 『新撰長禄寛正記』「日蓮上人由来之事」
戦国未来の連載シリーズ一覧
井伊谷宮と宗良親王~井伊谷のもうひとつの見どころ
宗良親王も籠城した三岳城(三嶽城)
大河ドラマで注目「龍潭寺」みどころと南渓瑞聞とは~井伊家発祥の井戸も

共通カウント (寄稿)戦国未来

カウンター

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 石井彦鶴姫は、1541年に肥前・飯盛城主である石井常延(石井兵部少輔常延)の次女として生まれました。…
  2. 大蔵卿局・大蔵局(おおくらのつぼね)は浅井長政の家臣だっとされる大野定長の妻で、茶々の乳母であったと…
  3. 慶誾尼(けいぎんに)は、慶ぎん尼とも書きますが、1509年に生まれた村中龍造寺家の当主・龍造寺胤和(…

人気の戦国武将

  1. 安土城(あづちじょう)は、琵琶湖東岸の標高199m安土山に織田信長が命じて築城した山城(比高112m…
  2. 淀城には「淀古城」と「淀城」の2つがありますが、その理由と歴史について調べてみました。 (さらに…
  3. 実際の山本勘助  武田家は滅んだ大名のため、武田家に関する資料は多く残されていない。  武田…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル書籍
柳生一族
2016年10月、書籍・電子書籍にて販売開始

 オリジナル電子書籍

2016年8月、戦国武将研究会著作
ページ上部へ戻る