長野無楽斎【長野正次】と長野業実(向坂伝蔵)


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 長野正次は、上野(群馬県)箕輪城主・長野業正(長野業政)の一族で、長野無楽斎(ながの-むらくさい)と号した。

 武田信玄の侵攻を6回に渡って撃退した、猛将・長野業正であったが、1561年に没した。
 その後、3男・長野業盛(長野氏業)が14歳で家督を継いだが、度重なる武田信玄の猛攻を支えきれず、ついに1566年、衆寡敵せず敗れて一族郎党と供に自害した。

 その時、長野業盛の子・亀寿丸(2歳)は、箕輪城の南1里半にある寺・和田山極楽院に匿われ、のちに出家して鎮良と称した。
 落城時に同行した家臣・阿保清勝の姪を妻に迎えて、5子を儲けたとされる。
 亀寿丸(鎮良)の5子として考えられる武将の名は長野業親や伝蔵(長野業実)となる。
 ただし、伝蔵(長野業実)は長野業親の子である可能性もある。

 1590年、豊臣秀吉小田原攻めにて関東に入封した徳川家康の家臣・井伊直政は、上野12万石として箕輪城に入り近代城郭へと改造している。

 この時、亀寿丸(鎮良)の5子のひとりと考えられる、長野業親の妻が、井伊直政と知り合いだったようで、長野業親と向坂伝蔵(長野業実、長野業真)、井伊家の家臣に加わったものと推測されている。
 向坂伝蔵(長野業実、長野業真)は徳川家康の近習として仕えたともある。

 この長野業実(向坂伝蔵)は、井伊直政から長野浜川郷1500貫を賜っており、井伊直政が彦根藩となると4000石で家老となった。
 ただし、幕末の大老:井伊直弼の師である長野主膳は、伊勢の長野家出身と考えられ関係ないとされている。

 ※不明確な点が多いので情報があれば是非コメント欄にお寄せ願えます幸いです。

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長野無楽斎(長野正次)

 長野無楽斎(長野正次)は、長野業正(長野業政)の叔父・長野業通の子と伝わっている。
 上記でご紹介した長野業親の嫡男・向坂伝蔵(長野業実、長野業真)が、長野十郎左衛門業真、すなわち長野無楽斎とする説もあり、この長野無楽斎の出自もまた良くわからない。

 この長野無楽斎(長野正次)も良くわかっていないが剣豪としても知られ、箕輪城が陥落したあと、長野正次が他家に仕えた記録は見当たらず、剣術修行に出たものと推測されている。
 新陰流の祖である上泉秀綱(上泉伊勢守秀綱、上泉信綱)にも剣を教わったと言われている。

 その後、長野業親と向坂伝蔵(長野業実、長野業真)らと共に井伊直政に仕えたものと推測される。

 長野無楽斎(ながの-むらくさい)は、いつも「自家用牛」に乗り、口綱は女の子に取らせていたと言うが、生涯不犯だったとされている。

 徳川家康が江戸幕府を開くと、柳生利巌の推挙によって尾張・徳川家に仕えたとされるが、1649年?90余りで亡くなった。

 →長野業正とは~猛将・長野業政に手こずった武田信玄
 →箕輪城に関してはこちら

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