武蔵・寺尾城と諏訪右馬助の大きな謎~横浜の寺尾城と川崎の寺尾城を訪ねて


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武蔵国には「武蔵・寺尾城」と呼ばれる城が2箇所ある。
もっと正確に申し上げると、その寺尾城は、神奈川県の横浜市と川崎市にある。

その両方の「寺尾城」をご紹介してみたいが、まずは、横浜市鶴見にある寺尾城から掲載するが、このページでは、横浜の寺尾城「殿山寺尾城」、川崎の寺尾城を「菅寺尾城」として記載する。

殿山寺尾城

殿山寺尾城(とのやまてらおじょう)は、横浜市の丘の上にあるため、山全体が住宅街となっており、残されている遺構も僅かである。

目指すポイントとしては、殿山寺尾城の遺構を残しつつ整備した「殿山公園」となるが、場所は下記の地図ポイント地点だ。

この武蔵・寺尾城の城主としては、小田原城主・北条家の家臣である諏訪氏の名が出て来る。
この諏訪氏は、もともと信濃・諏訪湖付近の諏訪一族だったようで、永享年間(1430年~1440年)頃に移り住んだとされている。

1495年に、相模統一を目指す北条早雲と、扇谷上杉家との交渉役を務めた武将として、寺尾城主・諏訪右馬助・諏訪馬之丞(すわうまのすけ)の名が見受けられる。
この諏訪右馬助は、5代目城主・諏訪右馬之助と同一人物と考えられるが、馬術上達祈願をした寺尾稲荷が殿山・寺尾城の付近にある。

また、諏訪右馬助かは不明だが、河越夜戦の際に、和議交渉をしたのは「武蔵国寺尾の住人」と史料にある。
下記写真は寺尾城(殿山公園)で、この公園奥の階段を上る斜面の遺構が保存されている。

殿山公園の階段を上って、山の上へとさらに上がると下記の案内板もある。

なお、1554年、北条家と武田家の合戦にて、諏訪右馬助が一番槍を果たしたともある。
この1554年に武田との戦いで手柄を立てたと言うのは、少し疑問点もある。

この記述は「北条記」に見られるが、1554年3月、駿河で北条氏康と武田晴信が激しく戦った加島合戦にて、富士川を越えて一番槍の手柄を立てたのが諏訪右馬之助とある。
しかし、北条家は1554年1月末に出陣するも、方向はまったく逆で安房・下総へと房総攻略を行っているのが、北条家・里見家の史料からわかる。
加島の戦いに関しては、甲斐・武田側の史料には見受けられない。
なお、北条氏康は、1554年7月、今川氏真の正室に早川殿を送り、12月には甲斐の武田信玄の娘・黄梅院を北条氏政の正室に迎えると言う、今川家・武田家に対して北条家は融和策を取っているため、婚儀前に、とても合戦したとは考えられない。

ただし、房総には真里谷武田氏と言う、上総の武田氏も存在していた。
1554年頃には久留里城・里見義堯の傘下に真里谷信高と言う武将がいたと考えられる。
そのため、推測になるが、房総の里美氏と戦った際に、真里谷武田氏の真里谷信高に対して、諏訪右馬助は一番槍の功名を立てたと言うのが加島の戦いであったが、武田と聞くと誰もが甲斐の武田と思うため、北条記の記録者が武田信玄と勘違いしたと言うのが妥当かも知れない。

いずれにせよ、寺尾200貫文の諏訪氏は相模衆十四家や、御旗本四十八番衆の一人として活躍し、諏訪右馬助は北条家の江戸衆に組み込まれた。
旧諏訪坂の上には、諏訪馬之助舘跡もあるらしい。

永禄12年(1569年)10月、武田信玄が碓氷峠を越え、滝山城を攻撃し、小田原城を包囲した際にも、寺尾城の名前が出て来る。
この時、武田勢が寺尾城に迫ったが、諏訪右馬之助(諏訪馬之丞)は小田原城に入っていたようで、城主不在の寺尾城には、僅かな兵しかおらず「城を焼かずに通り過ぎた」とも「寺尾城は陥落した」ともある。
恐らくは、武田勢の別動隊として武蔵方面から侵攻した山県昌景の部隊が寺尾城に迫ったようだ。
武蔵のどちららの寺尾城が攻撃されたのかと言うと、この時、山県昌景の進軍ルートは、江戸の葛西から池上・平間(川崎)を通過したと考えられるため、鶴見の殿山寺尾城の事だと推測できる。

なお、寺尾城主・諏訪三河守が創建したと伝わる、建功寺が鶴見にある。
この建功寺の過去帳「霊簿」によると、諏訪氏は天正3年(1575年)落城と記載されている他、寺尾城主2代目は諏訪参河守、3代目が諏訪平三郎、3代目が諏訪参河守、五代目が諏訪馬之丞ともある。
参河守は、正しい漢字で書けば「三河守」と言う事であろう。

いずれにせよ、1569年、三増峠の戦い以降、諏訪氏の名前は北条家の史料に出てこないことから、殿山寺尾城や諏訪右馬助がその後、どのような運命になったのかは不明である。

殿山寺尾城には駐車場がないため、殿山公園近くの100円パーキングを利用した。
有料駐車場の場所は、小生のオリジナルGoogleマップにてポイントもさせて頂いている。

神奈川県の城跡マップ(オリジナルGogoleマップ)

殿山寺尾城は、住宅地で見どころもわかりにくいため、寺尾城の石碑がある場所なども上記の独自地図を参考にして頂きたい。

菅・寺尾城

川崎北部にある菅・寺尾城は、室町時代に寺尾若狭守という武将が寺尾城を築いたとされる。
この寺尾氏は、もともと諏訪一族であったため、戦国時代に北条家の家臣となると諏訪姓に改めたと言う。

更に「小田原衆所領役帳」には、久良岐郡寺尾・諏訪三河守弐百貫文とある。
久良岐郡(くらきぐん)と言う場所は、現在の横浜市中区付近から鶴見川付近までだったようなので、そうなると、この200貫文の諏訪三河守は、殿山・寺尾城の城主だったと考えるのが妥当となるため、これまた解釈が難しい。

なお、冒頭で、寺尾城は横浜と川崎の2箇所あると明記したが、実際には入間郡にも寺尾城があり、寺尾城は武蔵国に3箇所と言う事になる。
新編武蔵風土記稿の「入間郡・寺尾村」の項目では・・

「村内に諏訪馬之助居城せしなりと云へり。北条役帳に二百貫文寺尾諏訪三河守とあり、また小田原記に武州寺尾の住人諏訪馬之助とあり。されば彼諏訪当時この地を領せしこと知るべし。されど橘樹郡の支郷馬場村にも諏訪三河守が居城の跡ありて、彼人の馬場の旧跡なりといふ。また同郡西寺尾村建功寺の旧記に「村内白幡明神は永享七年寺尾の城主諏訪勧請す」

とある。

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橘樹郡(たちばなぐん)と言うのは、新編武蔵風土記の調査が行われた、江戸時代に入ってから登場した郡で、久良岐郡の多くが橘樹郡に編入されたようなので、鶴見の殿山寺尾城は、久良岐郡でもあり橘樹郡と表記されてもおかしくはない。
しかし、菅寺尾城がある場所も、橘樹郡の領域であるため、これがまた、ややっこしい。
馬場村と言うのは、殿山寺尾城付近の地名である。

入間の寺尾城では、諏訪馬之助と表記されており、殿山寺尾城の諏訪右馬助(諏訪右馬之助)と微妙に漢字も異なるが、諏訪馬之丞と明記する史料もあり、このあたりは伝承を聞いた際に記述する漢字次第といったところなので、同一人物の可能性も捨てきれない。
と言うより、より一層、諏訪氏の本拠はどの寺尾城だったのか?と疑問が深まるばかりである。
長野の松代城近くにも同じ寺尾城がある。

神奈川県の城跡マップ(オリジナルGogoleマップ)
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