宮本武蔵の生涯と真実を追って~熊本と霊巌洞と武蔵塚も


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宮本武蔵(みやもと-むさし)には数々の伝承や憶測がありますが、いったいどんな人物だったのでしょう?
そんな剣豪・宮本武蔵の生い立ちをご紹介しながら、晩年を過ごした熊本での宮本武蔵ゆかりの地も簡潔かつ詳細にご紹介してみたいと存じます。

宮本武蔵は天正12年(1584年)頃に名家・新免無二の子として生まれたとされます。
母は不詳です。

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名字は「宮本」または「新免」、武蔵と言う名は通称です。
諱は玄信(はるのぶ)とされますので、正式には新免玄信と言う名であったかも?しれません。
幼名は辨助(べんのすけ、弁助)と伝わり、号は二天、また二天道楽。
宮本武蔵の著書「五輪書」では、自らを新免武蔵守、または藤原玄信と名乗っています。

出身地は播磨とされますが、美作国宮本村で生まれたため「宮本」と称したとする説もあります。

「五輪書」では、宮本武蔵が13歳の時に、初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘して勝利したとあり、16歳の時には但馬の秋山と言う兵法者にも勝利するなど、29歳までに60回ほどの勝負にすべて勝ったと記載されています。

なお、宮本武蔵は1600年の関ヶ原の戦いに参加したとされています。
ただし、当時はまだ無名であり武将としてではありません。
黒田家の家臣に加わっていたとする黒田家の文書が残されていますが、雑兵として参加したとも言われています。

その後、21歳の頃に京に赴くと、吉岡清十郎など京で名の知れた剣豪らにすべて勝利したとされます。

有名な巌流島の決闘では、佐々木小次郎と試合をしました。
時期は1612年5月13日とする説もありますが、その場合、宮本武蔵はまだ19歳頃と考えられ、時期は諸説あり定かではありません。

武蔵が決闘にわざと遅れたと言うのは作家・吉川英治の創作ですが、小倉にある顕彰碑「小倉碑文」では、宮本武蔵は遅刻しておらず「木刀の一撃」で巖流(佐々木小次郎)を倒したとあります。
一部の史料では佐々木小次郎は気絶したが息を吹き返したともあり、その他にも決闘時に宮本武蔵は最低でも50歳以上だったとあるなど、まぁ、巌流島の戦いに関して、不明な点は多いです。

1614年、大阪冬の陣の際に、宮本武蔵は水野勝成の客将となり、水野勝成の嫡子・水野勝重の側にて宮本武蔵が活躍したことが、複数の資料に見られます。

その後、姫路城主となった本多忠刻に仕え剣術などの流儀を披露しています。
また、水野家臣・中川志摩助の3男・三木之助(宮本三木之助)と、その弟・九郎太郎の2人を養子として迎えました。
宮本三木之助は、1618年頃、宮本武蔵の推挙もあり、本多忠刻の小姓となりました。

寛永3年(1626年)には、播磨の地侍・田原久光の次男・伊織を新たに養子にしています。
この宮本伊織(宮本伊織貞次)は、15歳のときに明石城主・小笠原忠真に出仕しましたが、のち弱冠20歳で執政職(家老)となっています。

1638年、島原の乱の際にも宮本武蔵は出陣したとされ中津城主・小笠原長次を後見したとありますが、天草四郎の一揆軍の投石により負傷したようです。
小倉城主・小笠原忠真のもと侍大将と惣軍奉行となっていた宮本伊織も出陣し、戦功により4000石となって筆頭家老に躍り出ています。

その後、宮本武蔵は松井興長を介して、寛永17年(1640年)に熊本城主・細川忠利に客分(軍事顧問)として招かれました。
この時、細川家からは7人扶持18石に合力米300石が支給され、熊本城の東にある千葉城跡に屋敷が与えられました。
肥後・千葉城跡には現在、NHK熊本がありますが、その入口付近に57歳頃と推定される宮本武蔵が使用した井戸跡などが残されています。

熊本で宮本武蔵は、鷹狩りも許されるなど客分としてはかなりの待遇で迎えられています。
この頃、熊本藩に足利義輝遺児・足利道鑑も客分となっていましたが、共に細川忠利と山鹿温泉に招かれるなどしたとされます。
なお、細川忠利の命で武道の奥義に関する「兵法三十五箇篠」を上書しました。

1641年、細川忠利が急死しますが、2代藩主・細川光尚からも引き続き300石が与えられ、この頃より余暇を使って水墨画や工芸品など制作しています。

現在残る宮本武蔵の作品の多くは、細川家の家老で八代城主であった松井寄之や、武蔵の晩年に世話をした家臣・寺尾求馬助信行の手元にあったもので、尚且つ太平洋戦争で八代が戦火を免れたために現在に伝わったと言う事になり、一部は重要文化財となっています。

細川忠利の三回忌にあたる寛永20年(1643年)からは金峰山にある岩戸に赴いています。

そして、岩戸の霊巌洞(れいがんどう)に籠って、兵法の極意となる「五輪書」の執筆を開始しました。
霊巌洞は熊本市内から車で約14km(約30分)の山の中にあります。
現在、霊巌禅寺がある場所となり、その境内奥に霊巌洞があり、有料拝観が可能です。

霊巌洞(霊巌堂)までは霊巌禅寺の入口から約3分といったところで、途中、五百羅漢像が出迎えてくれます。

この五百羅漢は、熊本の商人・渕田屋儀平(ふちだや-ぎへい)が、安政8年(1779年)24年掛けて奉納したものと言われているため、宮本武蔵の頃にはまだ無かったようです。

ちょっと足場が悪い上り下りの箇所もありますが、霊巌堂まではそんなに遠くありません。

霊巌洞の手前に到着しました。

霊巌洞はちょっとした洞窟になっており、急な階段をのぼり、堂内に入れます。

この霊巌堂は昔から知られており、平安時代中期の女流歌人・檜垣は、何度も訪れたとあります。

桧垣は京都で歌舞の名手として有名でしたが、博多を経て熊本に住み着いていたようです。
のち世阿弥は檜垣(桧垣)をモチーフ(モデル)にして、能・夢幻能(むげんのう)を作りました。

霊巌洞の内部には岩戸観音の名で知られる石体四面の観音像があります。

宮本武蔵は、臨終の7日前にしたためた「独行道」もここ霊巌洞にて書いたと言われています。

そして、亡くなる数日前に「独行道」「五輪書」などの兵法書の弟子・寺尾孫之允に渡しています。

正保2年(1645年)5月19日、千葉城跡の屋敷にて宮本武蔵は亡くなりました。

墓所は熊本にも数箇所ありますが、一番有名なのは下記の武蔵塚公園内にある通称「武蔵塚」となります。

武蔵塚公園(むさしづかこうえん)は2016年の熊本地震の影響で危険な箇所もあり、一部は立入禁止となっていましたが、なんとかお参りはできました。

死後も藩主を見守りたいという遺言から、参勤交代の行列が通る大津街道沿いとなっており、鎧・甲冑に身に着けて立ったままの姿で葬られたといます。
墓石には「新免武蔵居士石塔」と刻んであります。

ちなみに、宮本武蔵が亡くなる3ヶ月前に細川光尚は総勢2720人の大行列で江戸へ参勤に出発していました。
その翌年6月、細川光尚が帰国した際には、ここに宮本武蔵が葬られていたと言う事になります。

参勤交代が廃止となるので、100回を超す参勤交代の行列を武蔵は見守ったと言う事になりますが、それも途絶えている今は、もしかしたら寂しい思いで眠っているのかも知れません。
武蔵塚公園には二本の剣を持った宮本武蔵の像(この記事トップの写真)もあります。

小笠原家で出世した宮本伊織は熊本にあった武蔵の骨を分骨して、(岡山県)作州宮本村にある武蔵の両親の墓の隣にも埋葬したとされますが「父と諸国を旅していた時が一番楽しかった」と後年、語っています。

熊本での宮本武蔵にゆかりある史跡の場所ですが、下記のオリジナルGoogleマップの「熊本」の欄に、駐車場の場所など、観光情報をまとめてありますので、よければご参照願えますと幸いです。

当方オリジナルGogoleマップ (熊本の欄をご覧願います)
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