鍋島直茂と鍋島勝茂とは~鍋島化け猫騒動と龍造寺の存亡


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鍋島直茂(なべしま-なおしげ)は、肥前・佐賀の在地豪族である鍋島清房の次男として1538年3月13日に生まれた。
幼名は彦法師。通称は孫四郎・左衛門大夫。
母は龍造寺家純の娘・華渓。

鍋島家は、少弐政資の弟・少弐経直の子である少弐経房が、佐嘉郡鍋島村を領して「鍋島」と名乗ったとするが、もちろん諸説ある。
いずれによせ、少弐氏の重臣が水ヶ江・龍造寺家兼で、その龍造寺氏の家来が鍋島氏と言う事になる。
水ヶ江・龍造寺は分家で本家は村中龍造寺家の龍造寺胤栄となる。

1541年、鍋島直茂が4歳の時、龍造寺家兼の命を受けて、肥前・晴気城主である千葉胤連の養子になった。

その後、龍造寺家兼が少弐氏の家中で力をつけてきたのを警戒した馬場頼周が、1545年に龍造寺家純ら龍造寺家兼の一族大半を誅殺する。
辛くも龍造寺家兼は筑後に逃れ、柳川城主・蒲池鑑盛の保護を受けた。

九州千葉氏である千葉胤連は、少弐氏の一族であったことから、鍋島直茂は養子縁組が解消となり、父・鍋島清房のもとに戻った。
※千葉胤連に男子・千葉胤信が生まれたので戻されたとも、千葉胤連が隠居すると鍋島直茂

1546年、再起した龍造寺家兼・龍造寺胤栄・龍造寺家門らに父・鍋島清房が協力して、水ケ江城を奪回すると、祇園城にいた馬場頼周を攻めて討ち果たした。
しかし、既に高齢だった龍造寺家兼は、出家していた曾孫の円月を還俗させると1546年3月10に死去。

この円月は水ヶ江・龍造寺家の家督を継ぎ、龍造寺胤信と称した。
のち肥前の熊の異名をとり、主家・少弐氏を下剋上で倒す龍造寺隆信である。

1556年、その龍造寺胤信(龍造寺隆信)の生母・龍造寺胤和の娘となる慶誾尼(48歳)は、鍋島家をなんとしても味方につけようと押し掛ける形で、父・鍋島清房(45歳)の継室として嫁ぎ、鍋島清房が龍造寺隆信の後見役となっている。
主君の母が、家臣の正妻になるというかなり異例の出来事であるため、慶誾尼がいかに必死だったのか理解できる。

1554年、17歳のときに元服した鍋島直茂は龍造寺隆信の家臣として初陣した。
なお、兄に鍋島信房(なべしま-のぶふさ)がいるが、あまり動向については伝わっていないが、父・鍋島清房が隠居すると弟である鍋島直茂が家督を継いだ。

龍造寺隆信から厚い信頼を得た鍋島直茂の2人は、1547年、本家の龍造寺胤栄の命にて、主筋に当たる勢福寺城主・少弐冬尚を攻めると言う下剋上を行い少弐冬尚を追放。
なお、1548年に本家の龍造寺胤栄が死去すると、龍造寺隆信は未亡人(龍造寺家門の娘)を正室に迎えて、嫡子がいなかった本家・村中龍造寺家の家督も継承した。

龍造寺隆信と鍋島直茂は勢力拡大に奔走し、1559年には、少弐冬尚の勢福寺城を攻めて自刃させ、少弐家が滅亡。
1560年には千葉胤頼を攻め滅ぼし、1562年までに龍造寺隆信は東肥前を支配するに至った。

こうして九州は薩摩の島津義久、豊後の大友宗麟、そして肥前の龍造寺が九州を三分し、山口からは毛利元就が乱入するという勢力争いになる。

1569年、大友宗麟が侵攻してくると、鍋島直茂は龍造寺隆信に籠城と、安芸・毛利輝元と毛利元就へ援軍を要請。

1570年、龍造寺隆信の村中城(佐賀城)が、大友親貞60000の大軍で包囲される。
これだけの大軍を迎えるのは、龍造寺家も初めてであり、鍋島直茂(33歳)はとにかく、百姓に扮した家臣を放って偵察・情報収集を行った
すると、今山に本陣を置いている大友親貞が、明後日に陣替えするので、明日の晩は酒宴を催すという一報を得る。
そこで、鍋島直茂は夜襲を提案・指揮し、5000にて深酔いしている大友勢を撃破し、大友親貞を討ち取ると言う、この今山の戦いで勝利し、大友勢は撤退した。
以後、鍋島直茂は龍造寺家での存在感を高める。

1575年には少弐氏の旧臣らを全て滅ぼし、1578年には、有馬義純の松岡城攻略にも貢献し、龍造寺隆信の肥前統一に尽力した。

1580年4月、龍造寺隆信が嫡男・龍造寺政家に家督を譲ると、鍋島直茂が後見している。

なお、鍋島直茂の正室は高木胤秀の娘・慶円であったが、この頃にはすでに亡くなっていたようで、継室である石井常延の次女・彦鶴姫(陽泰院)との間に、1580年10月28日、石井生札の屋敷にて、嫡男・鍋島勝茂が誕生している。
なお、側室は井手口小左衛門の妹が見受けられる。

1581年、島津家が肥後に北上すると、龍造寺政家と鍋島直繁らは赤星親隆を下し、肥後北部の内古閑鎮房も降伏させる。
また、龍造寺隆信と鍋島直茂は策略を用いて、島津氏へ接近を図っている柳川城主・蒲池鎮漣と和睦すると見せかけて佐賀城に誘い出すと、護衛の200名全員と蒲池鎮漣を討ち取った。
そして、鍋島直茂の督戦の下、田尻鑑種が柳川城攻めを行った(柳川城の戦い)となる。

柳川城の蒲池氏と言うと、龍造寺家が、かつて追われた際に、世話になり再起するきっかけを与えてくれた恩義があるはずであったが、命を受けた小河信貴、徳島長房らが蒲池鎮漣の一族まで根絶やしにした事から、百武賢兼・赤星統家など龍造寺隆信に不信感を抱く家臣らの反発も出た。

鍋島直茂(44歳)は柳川城主となって、以後は筑後の国政を担当したが、度々諫言を行う鍋島直茂を、龍造寺隆信は次第に疎んじるようになったともされている。

1584年3月、有馬晴信が龍造寺家から離反し深江城を攻めると、龍造寺隆信は深江城を救援し有馬晴信を攻撃した。
しかし、薩摩からの援軍も得ている有馬晴信をなかなか攻略できず、有馬晴信と島津家久が沖田畷(おきたなわて)の防備を固める。

有馬晴信と島津家久の軍勢は6000であった為、25000を動員していた龍造寺隆信は大軍にて沖田畷へ進軍する。
しかし、山と山に狭まれた湿地帯で、通行できる道も限られる沖田畷にて頴娃久虎、新納忠元、猿渡信光、伊集院忠棟、川上忠智らに挟撃され、更には伏兵にも苦しむ結果となった。

鍋島直茂は、丸尾城猿亘信光(猿亘越中守)を陥落寸前まで追い込むも、この沖田畷の戦いで龍造寺勢は、鍋島直茂の実弟・龍造寺康房と小河信俊、成松信勝、百武賢兼などの重臣を失っただけでなく、総大将の龍造寺隆信も川上忠堅に首を取られた。
一旦、柳川城に戻った鍋島直茂(47歳)は自害しようとしたが家臣に止められ、佐賀城へと退き、龍造寺政家を補佐して島津勢の侵攻に備えた。

島津家久は、龍造寺隆信の首の返すと申し出てきたが、鍋島直茂はこれを拒否して徹底抗戦の構えを見せた。
龍造寺勢は兵力をかなり失っていた為、賭けとも言える強気であった訳だが、これが奏して龍造寺側の惨敗にも関わらずより、よい条件にて島津家と和睦するも、島津家に恭順する形となった。

そして、筑後侵攻を許していた大友宗麟の立花城に籠る立花宗茂を攻撃したが、鍋島直茂は早くから豊臣秀吉に誼を通じ、九州攻めを促していた。
豊臣秀吉が九州攻めの軍を出すと、島津家とは手切れし、肥後・南関にて島津勢に囚われていた立花宗茂の母と妹を救出している。
こうして、豊臣秀吉の九州攻めでは、龍造寺勢は立花勢とともに島津攻めの先陣を担当した。

1587年、島津義久が豊臣秀吉に降伏すると、龍造寺政家は肥前7郡32万石を安堵され。
しかし、豊臣秀吉は鍋島直茂を高く評価し、別に4万4千石を与えると、龍造寺政家に代わって国政を担当するよう命じた。
鍋島勝茂にも7000石の所領が与えられている。
また、1588年には龍造寺政家に、1589年には鍋島直茂と嫡子・鍋島勝茂が豊臣姓が下賜されている。

1591年11月28日、龍造寺政家が豊臣秀吉の命で隠居すると、5歳の長法師丸(龍造寺高房)があとを継いだが、長法師丸は鍋島直茂の養子となっており、引き続き実権は鍋島直茂(54歳)が掌握した。

そして、朝鮮攻めにおいて、鍋島直茂と鍋島勝茂は龍造寺勢12000を率いて出陣し、加藤清正らと活躍。
隠居の龍造寺政家と龍造寺高房は軍役を免除されているが、軍勢を率いていないと言う事は、もはや大名ではない。

1600年、関ヶ原の戦いでは、子の鍋島勝茂が石田三成の西軍に属して伏見城攻や伊勢・安濃津城攻めに参加したが、鍋島直茂は徳川家康の勝利を予測しており、尾張の穀物を買い占めて、米の目録を徳川家康に献上。
そして、関ヶ原合戦が始まる前に、鍋島勝茂と龍造寺勢を戦線から離脱させ大阪に戻すと、鍋島直茂は黒田官兵衛らと立花宗茂の柳川城、小早川秀包久留米城を攻撃した。

石田三成敗走の知らせを受けると、黒田長政の仲裁で徳川家康にいち早く謝罪。
鍋島氏の戦いは認められ、肥前・佐賀35万7000石は安堵されたが、覇者となった徳川家康も龍造寺氏を無視している。

龍造寺高房は瑞光院(鍋島直茂の養女、鍋島茂里の長女)を正室に迎えて、人質として江戸城に出された。
佐賀藩主でありながら、以前として、鍋島氏に実権を握られていたことに失望し、1607年3月3日、桜田屋敷で妻を殺害して自らも腹を斬ったが、家臣に止められ自害未遂に終わる。
この傷を養生で肥前に帰ることを許されたが、妻の亡霊にも悩まされるようになり、次第に精神を病んで再び自殺を図ろうとした。
このとき龍造寺高房の腹部の傷が破れて出血多量し、1607年9月6日、故郷に帰ることなく自殺同然の死を遂げた。

鍋島直茂は、不自由しないよう毎年8000石を江戸の龍造寺高房に送っており、なぜ自殺するのか?と、隠居していた龍造寺政家に抗議したが、その龍造寺政家も約1ヶ月後の1607年10月2日に死去した。

こうして、龍造寺家の嫡流が断絶したため、江戸幕府は、龍造寺一門の3人(龍造寺家晴、龍造寺隆信の弟・龍造寺信周、龍造寺長信)を江戸に呼んで、誰が家督を継ぐべきかと問うたと言う。
これに対して、3人全員が、鍋島直茂の功績をたたえ、鍋島家を相続人にと推挙。

こうして、龍造寺家に替わり、鍋島家が名実ともに佐賀の大名となるが、鍋島直茂は龍造寺一門へ敬意を表し、自らは藩主の座には就かず、初代藩主は鍋島勝茂となった。
そのため鍋島直茂は藩祖と言う扱いになり、なんとか龍造寺家臣の不満を抑えている。

1609年4月には、山崎藩主である岡部長盛の娘・菊姫(高源院)が、徳川家康と阿茶局(雲光院)の養女となり、鍋島勝茂の継室となった。

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鍋島化け猫騒動

鍋島直茂は、1618年6月3日に病死した。享年81。
耳に腫瘍ができ、その激痛に苦しんだ上での半ば悶死であったとされ、鍋島化け猫騒動(なべしまばけねこそうどう)と言う怪談に発展した。

元ネタとしては、下記のような感じとなる。

名ばかりの藩主となり、無念の死を遂げた龍造寺高房の遺体は、江戸にて火葬された後、佐賀城に送られると泰長院に葬られたと言う。
しかし、夜な夜な龍造寺高房の亡霊が、白装束を着て馬に乗り、城下を駆け巡っていると言う噂が立った。

鍋島直茂は龍造寺の残党が治安を乱した為、龍造寺の霊を鎮めるとし、天佑寺を建造。

この話が発展して、龍造寺高房が、かつて飼っていた猫が化けて、鍋島直茂と鍋島勝茂に復讐を企て、鍋島氏の忠臣によって最終的に退治されるという「鍋島化け猫騒動」のストーリーになった訳である。

豊臣秀吉は鍋島直茂のことを「天下を取るには知恵も勇気もあるが、大気が足りない」と評している。
すなわち、広い心が足りないと言っている。

しかし、主家の家臣の分家の家来と言う立場から35万石を有するまでになった手腕は、並外れたものであり、戦国武将としては大成功した一人と言えよう。

佐賀・高伝寺

佐賀の高傳寺(高伝寺)は、1552年に鍋島清房が創建した鍋島家の菩提寺です。

駐車場脇の門を入って正面の建物が受付となり、拝観時間は8:00~18:00で、拝観料は300円となっています。
下記は別の山門です。

下記は本堂ですね。

本堂の左脇奥に進みますと、鍋島家と龍造寺家の墓所入口となります。

下記は鍋島直茂の墓(鍋島直茂・陽泰院夫妻の墓)です。

下記は鍋島勝茂の墓。

下記は鍋島勝茂の四男である鍋島忠直の墓です。

下記は佐賀藩の2代藩主・鍋島光茂の墓となります。

その他、この墓所には、歴代の鍋島氏の墓や、龍造寺高房の墓、龍造寺政家の墓、龍造寺隆信の墓、龍造寺家兼の墓、阿安姫の墓などもあります。
高伝寺への行き方ですが、参拝者用駐車場は下記のポイント地点でございます。

佐賀城からはクルマで5分位のアクセスですので、是非セットでどうぞ。

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コメント

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  • コメント (1)

    • 太田
    • 2016年 12月 31日

    ここでいう大気は『心が狭い』というよりも秀吉の感覚からすれば『慎重すぎる』といった感じのニュアンスだと思います。
    かつて主人だった隆信が豪腕な『覇』の人だった反面、そうした人物を補佐する存在としてはそうした慎重さが自ずと身についたのでしょう。
    彼も微妙な政治情勢の中で人質として幼少期を過ごしていますし、沖田畷の戦い前の行動にしても交戦したことない島津のことをかなり警戒し、相手がどのようなものかまず調べましょうと諫言しています。関ヶ原の戦いの時も息子が西軍につき、しかも西軍が敗北した時のことまで考えて予め仕置をしています。
    彼の人生での言行を見た上で言えるのはとにかく慎重にことを進め、相手の裏をかき、どちらに転ぼうとも自陣の利益を確保するという抜け目のなさ、粘り強い人といった人物像ですね。

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