黒田長政~父に負けず勇猛果敢で智将でもあった武将


スポンサーリンク
スポンサーリンク

 黒田長政(くろだながまさ)は、豊臣秀吉の軍師である黒田官兵衛(黒田孝高・黒田如水)の長男(嫡男)。
 母は、櫛橋伊定の娘である光姫とされ、1568年12月3日に姫路城にて誕生した。黒田長政の幼名は松寿丸。

 1567年頃、父である黒田官兵衛は、黒田長政の祖父になる黒田職隆から、黒田家の家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となっていた。

 黒田官兵衛が織田信長に仕えるようになり、羽柴秀吉の軍師となると、黒田長政は1577年から織田信長への人質として、織田家・家臣の羽柴秀吉に預けられ、羽柴秀吉の居城だった近江・長浜城にて過ごした。
 主君・小寺政職の子が病弱だった為、小寺家を代表して人質になったと考えられる。
 幼い頃より競争意識を植え付けられて育てられたため、長浜城での人質生活でもへこたれることなく、市松(福島正則)や虎之助(加藤清正)らとも堂々渡りあっていたと言う。
 

 スポンサーリンク


 織田信長に臣従し伊丹城主となり摂津37万石と厚遇されていた荒木村重は、三木合戦にて羽柴秀吉軍に加わっていたが、1578年10月、突然謀反を起こし毛利勢に組し、戦線を離脱して居城の有岡城(旧・伊丹城)に立て籠もった。
 織田信長は説得の使者として明智光秀、松井友閑、万見仙千代(万見重元)を有岡城に派遣し、これを聞いた高槻城の高山右近も有岡城へ説得に向かった。
 荒木村重は織田信長に謝罪する為、母親を人質に釈明すべく、息子と共に安土城へと旅に出たが、途中、茨木城に立ち寄った際、城主・中川清秀の注進もあり、有岡城へ戻り織田信長への逆意を明らかにした。

 羽柴秀吉は荒木村重と旧知の仲だった黒田官兵衛を使者として、有岡城に派遣し翻意を促したが、荒木村重は黒田官兵衛を拘束して、伊丹城内の土牢に監禁した。 
 この時、いつまで経っても戻らぬ父・黒田官兵衛が、荒木村重に寝返ったと判断した織田信長は、激高して羽柴秀吉に人質の松寿丸を処刑するように命じる。

 この荒木村重には、当初、高山右近、中川清秀も協力したが、ほどなく離脱し、高山右近、中川清秀は織田信長に臣従し許されている。
 そして、大和田城、能勢城、三田城も織田信長に寝返り、荒木村重は孤立した。
 戦局有利と見た織田信長は石山本願寺との和平交渉を打ち切り、滝川一益、明智光秀、蜂屋頼隆、氏家直昌、安藤守就、稲葉良通、羽柴秀吉、細川藤孝らで有岡城を攻撃。
 力攻めでは損害が大きかった為、兵糧攻めとなり、有岡城は約10ヶ月間、毛利勢の援軍を期待して飢えに苦しむこととなったが、三木合戦同様に毛利は援軍を出さなかった。
 1579年9月2日、荒木村重が単身で有岡城を脱出し、尼崎城へ移った事が織田勢に知られることとなり、10月15日午後10時頃、織田勢は有岡城に総攻撃を開始。10月19日に有岡城は降伏した。
 
 黒田長政の父・黒田官兵衛は、有岡城の西北にある日も射さぬ狭い牢獄に約10ヶ月閉じ込められた。
 横になって寝る事もできないほどの狭い牢獄だったとされ、黒田官兵衛の肌は栄養失調からカサカサになり、膝は曲がったまま足腰が立たない状態となってしまった。
 唯一、心の安らぎとなったりは、牢獄から見える藤蔓であったとされ、新芽を吹き出し、たまに花の蜜を目当てに小鳥が飛んでくる光景を生涯忘れられず、後に大名まで出世した際、黒田家の家紋を「藤巴」に選んでいる。
 一方、姫路城の黒田家・家臣は救出作戦を練り、栗山善助(栗山利安)、母里太兵衛(母里友信)、井上九郎次郎らが商人に変装して、有岡城に潜入。やがて投獄されている場所を特定し、牢の番人・加藤重徳の協力も得る事にも成功すると、以後は自由に牢獄に尋ねる事ができるまでになった。
 
 また、人質であった黒田長政の処刑を命じられていた羽柴秀吉は困り果てていたが、竹中半兵衛(竹中重治)が「その役目手前がつかまつる」と、長浜城に向うと、黒田長政を自分の領地である美濃・岩手(菩提山城)に移動させ、別の首を差し出し、織田信長の命に逆らって、黒田長政を匿った。
 竹中半兵衛の重臣・不破矢足や、喜多村十助に匿われたともされており、黒田長政は命が助かり、やがて有岡城の陥落後に、救出されて疑念の晴れた父・黒田官兵衛と共に、姫路城へ帰郷できている。
 
 黒田官兵衛は、10月15日に総攻撃が開始された際の混乱に乗じて、栗山善助、母里太兵衛、井上九郎次郎らは救出に成功し、3名は足腰が立たない黒田官兵衛を背負い、戸板に乗せたりしながら有馬温泉に向った。
 そして、黒田官兵衛は有馬温泉で静養し体力が回復したのち、姫路城へ帰還すると羽柴秀吉と対面している。
 羽柴秀吉は、黒田官兵衛のあまりの変わりように驚き「すまぬ、すまぬ」と号泣したと伝わっている。
 また、真相を知った織田信長も、黒田長政の処刑を命じた事に対して「不明であった」と大変悔やんだとされるが、竹中半兵衛の気転によって、黒田長政が存命である事を知ると、大いに喜んだと言われている。
 しかし、この時、すでに竹中半兵衛は1579年11月に三木城攻めの三木平井の陣中で病死(36才)していた。

 有岡城で牢獄の看守であった加藤重徳(加藤又左衛門)の親切な心配りに感謝していた黒田官兵衛は、その子を養子にし、黒田一成(黒田三左衛門)と名乗らせ、実子同様に養育した。成長した黒田一成(黒田三左衛門)は戦でも大活躍し、黒田長政が筑前(福岡藩)に52万3000石を与えられると、三奈木16205石を領し、三奈木黒田家として明治維新まで代々、大家老職を世襲した。

 黒田長政は、1582年6月、本能寺の変で織田信長が自刃すると、父と共に羽柴秀吉に仕え、羽柴秀吉の備中高松城攻めにも従い、中国地方の毛利氏と戦った。この時、黒田長政は14歳。
 1583年、賤ヶ岳の戦で功をあげ、河内国に450石を拝領している。
 1584年、小牧・長久手の戦いでは父・黒田官兵衛と共に大坂城の留守居を務め、根来・雑賀の一揆を鎮定する武功を挙げた功績により、2000石を与えられた。 この頃、正室に蜂須賀小六の娘・糸姫を迎えている。
 1585年頃には、後藤又兵衛が黒田長政の家臣に加わっている。
 1587年の九州征伐で、黒田長政は日向財部城攻めにて功績を挙げ、戦後、父・黒田官兵衛の功績とあわせて豊前国中津に12万5000石を与えられた。
 1588年、城井谷(福岡県築上町)の城井鎮房(宇都宮鎮房)が黒田氏の入封を拒み反旗を翻したが、それを黒田長政が謀略的手段を使って鎮圧している。
 1589年に、父・黒田官兵衛が家督を黒田長政に譲った。21歳になっていた黒田長政に黒田家の家督相続することを豊臣秀吉に認められたが、黒田官兵衛の隠居は許されず、以後も黒田官兵衛は羽柴秀吉と行動を共にしている。なお、この時、黒田長政は従五位下、甲斐守に叙任。
 1592年からの豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄・慶長の役」では、5000の兵を連れて朝鮮に渡り、各地を転戦。文禄の役では先鋒として渡海、金原・昌原を抜いて南海道を進み、小西行長の危機を救った。
 また、小早川隆景らと共に臨んだ碧蹄館の戦いにおいて、黒田長政は負傷もしたが、後藤又兵衛の活躍もあり苦戦の末に明軍を破り、1594年に帰国。
 続く慶長の役においても渡海し、武功を挙げたが、石田三成、小西行長ら官僚とは対立している。
 1598年8月、豊臣秀吉が死去すると、石田三成らとの対立路線から、黒田官兵衛の考えもあり黒田長政は五大老の徳川家康に接近し、蜂須賀正勝の娘と離縁してまで、徳川家康の養女(保科正直の娘)栄姫を正室に迎えた。栄姫は化粧料として豊後国玖珠郡内に1000石賜っている。
 1599年閏3月に、前田利家が死去すると、福島正則や加藤清正ら武断派と共に石田三成を襲撃。

 1600年、徳川家康が会津の上杉景勝討伐(会津征伐)の兵を起すと、徳川家康に従って出陣。
 出兵中に石田三成らが大坂で西軍を率いて挙兵すると、東軍側として関ヶ原の戦いにも参戦した。同じ本陣には、竹中半兵衛の子・竹中重門も加わって共に戦った。
 下記は関ヶ原合戦の際に陣を置いた、岡山烽火場となる。

 西軍による妻女人質作戦の際に、栄姫は光姫と共に大坂を脱出して、中津まで逃れることに成功している。

 関ヶ原での黒田隊は、石田三成の本陣・笹尾山を攻めるなど活躍は凄まじかったと言うが、一方で黒田長政は西軍の小早川秀秋吉川広家など諸将を調略し、寝返りを交渉も務めた。
 これらの多大な功により、外様大名でありながらも徳川家康から信頼され、関ヶ原の戦い一番の功労者として、小早川秀秋の所領だった筑前名島(福岡)に52万3000石を与えられ名島城(福岡市)に入り、黒田長政は福岡藩の初代藩主となった。

 1601年、城下町の発展を考え、古くからの港町として栄えていた博多に隣接する福崎の地に城を築くことにし、福岡城(舞鶴城)の築城を開始(7年後に完成)
 黒田家の祖ともいうべき黒田高政が備前(岡山県)の福岡から家をおこしていった故事にちなみ、福崎を福岡と改称し、現在の「福岡市」になったのである。

 1602年11月、黒田長政の長男・黒田忠之が生まれた。
 1603年、従四位下、筑前守に叙任。
 1604年3月、黒田官兵衛没す(59歳)。
 井上周防を黒崎城、毛利但馬を鷹取城、大隈城には後藤又兵衛(後藤基次)を置いた。栗山利安は黒田官兵衛の冥福を祈って朝倉郡志波に円清寺を建立。

 1606年、後藤又兵衛は黒田長政と不和となり出奔し、細川忠興に仕えたが、細川家と黒田家が対立すると、再び浪人になった。

 1614年、大坂冬の陣で、黒田長政は江戸城の留守居役を命じられ、黒田勢は代理として嫡男の黒田忠之(14歳)が率いて大阪に出陣した。
 翌年の大坂夏の陣では2代将軍・徳川秀忠に黒田長政も従って、豊臣勢と戦っている。
 関ヶ原の戦いから10年以上経過した大坂の陣の頃には、実戦経験豊富な武将は既に貴重な存在となっていたが、豊臣勢に加わった後藤又兵衛は道明寺の戦いで戦死。同じく大阪城に味方した真田幸村も命を落としている。

 1622年1月、黒田長政の子・黒田忠之は、徳川秀忠の養女(松平忠良の娘)を妻に迎えた。
 1623年8月4日、徳川秀忠の上洛に先立って早くに入京したが、黒田長政はまもなく発病。宿にしていた京都知恩寺で死去した。享年56歳。黒田家は長男・黒田忠之が継いでいる。

 黒田長政は福岡城に、ふだん使わない部屋を1つ用意させていたと言う。
 その部屋では月に3日だけ、朝から夕方まで過ごし、家中の者なら誰でも直接その部屋を訪ねて、藩主に自由に意見を申し述べる機会を与えていたのだ。
 「釈迦の間の異見会」ということで、家臣の上下の風通しを良くする考えだったようだ。

 下記写真は、よみうりランド丘の湯にある、秋月藩黒田長興の屋敷門(移築)。

黒田官兵衛に関してはこちら
人質の黒田長政(松寿丸)を保護した不破矢足と五明稲荷神社
岡山烽火場(丸山)黒田長政・竹中重門の陣跡~関ヶ原がキレイに見え気軽に登れる展望地
その他、黒田家のカテゴリからもどうぞ

スポンサーリンク

関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. 2015年 2月 28日

 スポンサーリンク

気になる戦国女性

  1. 島津亀寿(しまづ-かめじゅ)と言う薩摩のお姫様がいます。 亀寿姫と呼びますが、法名から薩摩では持明…
  2.  彦姫は、米沢城主・伊達晴宗の4女として、1552年?に生まれた。兄に岩城親隆・伊達輝宗などがいる。…
  3. 寿桂尼(じゅけいに)は、藤原北家である勧修寺流の中御門家(公家)・権大納言中御門宣胤の娘で、兄に中御…

人気の戦国武将

  1. 戦国時代の日本歴史上有名な戦いである「桶狭間の戦い」に触れてみたいと思います。 今川義元の大軍に、…
  2. 長篠城を包囲した武田勝頼に対して、徳川家康・織田信長が38000の援軍を派遣すると、武田勝頼が120…
  3. 広島城(ひろしまじょう)は1589年に築城された輪郭式平城で、別名は鯉城(りじょう)、在間城(ざいま…

オリジナル戦国グッズ

限定「頒布」開始しました。無くなり次第終了です。
戦国オリジナルバック

 スポンサーリンク
当サイトでは
Android app on Google Play
↑ アプリ版もあります
 オリジナル書籍
柳生一族
書籍・電子書籍にて販売開始

 オリジナル電子書籍

戦国武将研究会著作
ページ上部へ戻る