中川清秀 荒木村重傘下の有能な武将

中川清秀

1542年に誕生。父は高山重清(中川重清、中川佐渡守重清)で、母は中川清村の娘。
父である中川重清は、桓武平氏良文流の後裔である常陸の高山重利の次男とされるが疑問点もある。
高山右近の父・高山友照は、中川清秀の父・高山重清と兄弟であるとされているが、高山友照は摂津出身とされているので、常陸から来たのか、元々摂津出身なのか、それともどちらかが明らかな養子なのか?余計に出自に疑問が残り、良くわからない。

ともあれ、中川清秀の父・高山重清は 1535年頃?に常陸から京の都に上って、その後、摂津国に移ると中川清村に仕えたとされる。
その後、主である中川清村の嫡男・中川清照が戦死し、跡取りがなくなった中村清村は、娘と高山重清を結婚させて養子に迎え、このとき、高山重清は平氏から源氏に改め、中川重清と改名した。
恐らく、父・高山重清は有能な武将だったのだろう。
推測するに、1541年前後と考えられる。


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そして、子になる中川清秀が1542年に誕生したのだ。
幼名は虎之助。通称は中川瀬兵衛。
中川重清は稲田城主として摂津の小大名となったが、周辺には巨大勢力があり、領土経営は大変難しい状態であった為、池田城主・池田勝正に最初従属。
しかし、1564年、山崎恒政(山崎右馬允)に攻められて敗走。のち稲田城を再興するが、1570年には摂津国平定をめざす荒木村重に攻められて降伏。
以後、池田氏家臣である荒木村重の重臣として仕えた。
父・中川重清の没年や家督が譲られた時期は不明なので、この頃、既に中川家は中川清秀が率いていたと考えられる。
中川清秀の正室は稍姫(熊田宗白の娘、やや)で、1568年には中川清秀の嫡男・中川秀政、1570年には次男・中川秀成が誕生している。

池田家の一家臣であった荒木村重は、池田城から池田勝正を追いだして池田家を掌握すると、1571年には白井河原の戦いで荒木村重と中川清秀が、茨木城主・茨木重朝と高槻城主・和田惟政を討ち取ると中川清秀が荒木村次を補佐し実質的な茨木城主となった。そして、中川清秀は1577年に正式に60000石の茨木城主となっている。

この荒木村重の活躍に目をつけたのは1568年に上洛を果たした織田信長で、荒木村重は織田信長から厚い信頼を得て摂津一国を任された。

1573年、中川清秀は、柴田勝家が指揮する河内の高屋口の合戦に参加し、宣教師や相手方の首を切り、功をたてた。

1574年11月5日に、荒木村重・中川清秀らは伊丹城を落とし、荒木村重は伊丹城主となり、摂津国を支配。高槻城主となっていた高山右近も、荒木村重の与力として加わったが、荒木村重の活躍もこう言った有能な武将が支えていたことが分かる。

しかし、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)や黒田官兵衛竹中半兵衛蜂須賀小六らと三木城攻めをしていた1578年7月、荒木村重が戦線を離脱して有岡城(伊丹城)に戻り織田信長に謀反を起こす。
この荒木村重謀反の原因となった石山本願寺への兵糧の横流しをしたのは、中川清秀の家臣とする説がある。

荒木村重は、織田信長の使者である明智光秀、松井友閑、万見重元に説得や、高槻城の高山右近の説得も受けて、釈明のため安土城に旅だったが、途中で寄った茨木城で中川清秀から「信長は部下に一度疑いを持てばいつか必ず滅ぼそうとする」との進言を受け、伊丹城に戻った。
この事により、織田勢は有岡城を包囲し、有岡城の戦いとなる。
中川清秀や高山右近らも縁故であるということもあって荒木村重に味方し各持ち城にて籠城し、荒木村重は有岡城に篭城。
黒田官兵衛も荒木村重説得の為単身で赴くが、牢に捕えられてしまった。

荒木村重は織田勢に対して徹底抗戦をしたが、中川清秀は10月28日に織田勢と戦わずに降伏し、高山右近も11月に降伏。
荒木村重は圧倒的に不利となったが、1年籠城し翌年1579年9月2日に有岡城は落城した。
 
領土安堵された中川清秀は、その後、織田信長の家臣となり、丹羽長秀池田恒興の旗下として転戦。
娘である糸姫は、池田恒興の子・池田輝政に嫁いでいる。

1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、高山右近と共に行動し羽柴秀吉勢に合流して、山崎の戦いで主戦力として活躍。
1583年、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでも先鋒二番手として参戦。
しかし、大岩山砦を高山右近・三好秀次らと守備していた際に、柴田勝家勢の勇将・佐久間盛政の猛攻を受けた。
中川清秀の家臣、熊瀬莇助、松田孫三郎、田代太左衛門、奥彦太夫、同彦作、入江土佐、寺井弥次右衛門、高山総吉らも防戦に奮闘したが、中川清秀の弟・中川淵之助も討死し、中川清秀も自害。享年42。
墓所は大阪府茨木市の梅林寺、滋賀県長浜市大岩山砦跡。

この時、命を落とした中川家臣は、中川清秀以外に、中川淵之助 熊田孫七資一 熊田兵部次矩 熊田三太夫資之 森本道徳 山岸監物重本 杉村久助正英 森権之助 鳥養四郎太夫 大田平八 菅杢伝兵衛重武 野尻出助重英 藤井半右衛門 田代太左衛門 奥彦太夫光英 奥彦作 奥孫兵衛 田能村杢左衛門 入江土佐 赤井弥次右衛門元定 高山総吉 桜井河内正利 野口新助 田島伝次右衛門 玄正亡知半。
他には台所人11人 仲間御小人 20人余 雑兵300人となっている。

当時の梅林寺住職・是頓和尚は、中川清秀戦死の報を受けると、すぐさま賤ヶ岳に向かい、遺髪を貰い受けて持ち帰り菩提を弔ったと言う。

中川家の家督は長男・中川秀政が相続して茨木城50000石を継ぎ、その後見人には古田重然がついた。
この古田重然は千利休の死後は天下一の茶人となった人物で「利休七哲」の一人とされ「織部流」開祖で、古田織部と呼ばれた方が有名か? 古田重定(茶人である)の子で、妻は中川清秀の妹・せんである。(1569年に結婚)

その後、中川秀政は古田重然と共に、小牧長久手の戦いや、四国攻めに参戦し手柄を立て、三木城主13万石となり、1590年の小田原攻めにも2000を率いて出陣している。
しかし、1592年の文禄の役で、朝鮮で鷹狩りの最中に敵兵に包囲されて亡くなった。享年25。
これは戦死とは言えず、この失態による改易を恐れた中川家では事実を隠蔽して「戦死」とした為、豊臣秀吉の怒りを買い所領没収となり掛けたが、父・中川清秀の賤ヶ岳の戦いでの武功に免じて、所領半減として特別に弟・中川秀成に相続が許された。


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次男の中川秀成は、三木城66000石を継いで、1593年には1000を率いて晋州城攻撃にも参加。
この頃、豊臣秀吉の仲介で、父の敵とも言える佐久間盛政の娘である虎御前(虎姫)が、新庄直頼の養女となった後、中川秀成の正室になった。
しかし、中川家中や、姑(中川清秀の正室、熊田宗白の娘、性寿院)から嫌われた事から、結婚しても領地に下向することは一度もなく、終生、畿内で暮らしたとされる。
1594年2月には、豊後岡に移封し74000石となり、豊臣姓を下賜された。
1597年からの慶長の役では1500にて、朝鮮で転戦。
1600年、関ヶ原の戦いでは、当初、家臣を西軍の丹後・田辺城攻めに加勢させたが、関ヶ原の本戦後、東軍に与して、西軍の臼杵城主・太田一吉を攻撃。
佐賀関の戦いで、多くの家臣を失ったが、その功績が認められ、徳川家康から所領を安堵された。
そして、岡藩の初代藩主となり、幕末まで存続した。

中川清秀の正室・稍姫についてはこちら
中川秀成と虎姫とは~周りに惑わされることなくお互いを理解したふたり
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池田和泉守~日本で初めて鉄砲自殺したとされる荒木村重の重臣
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