中津城の訪問記とみどころ~信念が見受けられるコンパクトな中津城築城と広大な城下町


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中津城(なかつじょう)は、周防灘(豊前海)流れ込む中津川の河口に築かれた梯郭式平城で、別名を中津川城(なかつがわのじょう)、扇城、小犬丸城、丸山城とも呼ばれます。

なお、堀には海水が引き込まれている潮の潮位で水位が変わる薬研堀となっていることから、水城(海城)とも分類され、今治城や高松城と並び日本三大水城の1つとなっています。

一見いたしますと、本丸脇の水堀は、一部だけしか残っていないように見えますが、本丸が堀で囲まれていた訳ではありません。
いわば現存部分が元々の姿と言えます。

1587年に、黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)が、豊臣秀吉より豊前6郡に12万3000石(16万石とも、その後の検地で18万石)を与えられます。
最初は馬ヶ岳城を本拠としましたが、翌年、1588年から領地の中心となる山国川(中津川)の河口に、新城の築城を開始しました。

ただし、この場所には、古城・犬丸城があったようで、大改修をしたと言うのが正しい言い方かも知れません。
総構えとなる中津城と言う訳ですが、中津城で見れる近世城郭の石垣は、九州最古のものとなります。
黒田官兵衛の築城能力は優れていた為、豊臣秀吉の命を受けて大阪城の縄張り(設計)も担当しています。

この年、築城中の中津城にて、黒田官兵衛が留守のあいだに、嫡男・黒田長政が、敵対していた城井鎮房宇都宮鎮房)を中津城内に出仕させると、誅殺すると言う事件も起こりました。
黒田長政が暗殺した城井鎮房(宇都宮鎮房)の亡霊が出て、悩んだことから、城井神社では城井鎮房(宇都宮鎮房)が祀られています。

1600年、関ヶ原の戦いの際、黒田長政は徳川家康に従って、西軍諸将を調略し、黒田家の本隊を率いて石田三成とも直接対決するなど大きく貢献しました。
ここ中津城には、隠居した黒田官兵衛(黒田孝高、黒田如水)が残っていた訳ですが、各大名が上方に赴いていて、手数な九州を攻略しようと考えます。

しかし、中津城に残っていたのは約500の兵くらいと最低限であった為、普段、倹約(節約)して天守に貯め込んでいた蓄財を使い、たくさんの農民らを臨時兵として雇用して出陣しました。
そして、府内城(大分城)、岡城臼杵城などを次々と攻略しています。

黒田長政の功績が大きく、関ヶ原合戦のあと、黒田家は52万石で、筑前・名島城に転封となり、丹後・田辺城から細川忠興が中津城に入封しました。
ちなみに、豊後・杵築城6万石の飛び地は、そのまま細川領となり、合わせて39万9500石余となっています。

ただし、前領主・黒田長政が年貢を博多に持ち去っていたなど、細川忠興は商人らとも関係がこじれたため、中津での領内統治が困難だとして、1602年から小倉城の築城を開始し本拠としました。
中津城には子の細川興秋(細川忠利とも?)が入り中津城が更に大改修され、最終的には櫓が22基、門が8棟になったとされます。

ただし、天守に関しては、あったとも、なかったとも言われており、良くわかっていません。
まぁ、節約志向の黒田家ですし、豊臣秀吉からも警戒されていましたので、平和になってから築城した福岡城は別として、まだ戦乱の時代にお金が掛かる天守までは、中津では建てなかったのかな?と言う気が致します。

大分は晴れているのですが、中津は雨模様で写真がちょっと暗く申し訳ありません。

現在、中津城にある独立式望楼型5重5階の天守は模擬天守となっています。
萩城の天守に似ています。

なお、細川家では関ヶ原のあと、細川忠興の跡取りを巡っては、ゴダゴダがあり、1620年に細川忠興は家督を3男・細川忠利に譲っています。

そして、細川忠興は中津城にて隠居し、三の丸を拡張しました。
このようにのちのちでも拡張が必要なくらいですので、12万石の黒田家時代の中津城は、石高の割には規模が小さめです。
下記写真中央の石垣の境目分かりますかね?、黒田家の時代の石垣と、あとから足した細川家時代とハッキリわかります。
※各写真はパソコンの場合クリックすると拡大してご覧頂けます。

1632年に、熊本城の加藤家が改易されると、代わりに細川家が熊本城に入り52万石となります。
そのため、中津城には播磨・龍野城から小笠原長次が8万石にて入封しました。

その後、1717年に小笠原家が播磨・安志に1万石で転封となると、丹後・宮津城から奥平昌成が10万石で入封し、明治に至っています。

本丸は中津大神宮や城井神社があり公園化されています。

水堀の北端付近には、黒田官兵衛の像と光姫の像があります。

ちなみに、現在の中津城は、奥平氏の子孫が運営する会社が所有しています。
しかし、入場料収入よりも維持費の方が上回っており、赤字である事から中津市に売却する交渉が行われましたが折り合いがつきませんでした。
その為、2010年4月に建物が埼玉県の福祉事業会社・千雅(ちが)へ5000万円で売却され、千雅が設立した社団法人「中津城」が現在管理しています。

館内の史料展示では、奥平家が長篠の戦いで使った法螺貝などが公開されています。
黒田官兵衛みやげ館ではお土産も販売されています。
目薬のお茶は300円でした。

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さて、中津城への行き方ですが、JR中津駅にある観光案内所にて無料でレンタルサイクル(貸自転車)があります。
歩いた場合は駅から徒歩15分です。

クルマの場合には、中津城の中(中津公園)にも駐車場がありますが、下記の北側の無料駐車場がお勧めです。
車を止めて堀沿いを歩くと、中津城を外から眺めた写真が撮れます。

中津城下にある松厳寺、明蓮寺、合元寺と続く寺町は、敵が攻めてきた際に伏兵を配置する設計だったようです。
このように、中津城の城下町には、高さ4mくらいの「おかこい山」と呼ばれる総構えの土塁が随所に点在します。

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