徳川家康は大坂夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られた?南宗寺に残る伝承の謎


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NHK2016年の大河ドラマ『真田丸』も、いよいよ佳境を迎え、真田幸村徳川家康の一騎打ちも迫ってきた。そんなクライマックスの舞台に用意されている大阪夏の陣には、ちょっと信じがたいミステリアスな伝承が存在することをご存じだろうか。それは、「徳川家康は、大坂夏の陣で後藤又兵衛の槍を受けて戦死していた」という“もう一つの史実”である。

そんなことを言えば、「家康が死んだのは夏の陣の翌年で、駿府城で食したてんぷらにあたったからじゃ?」「後藤又兵衛なら、道明寺の戦いで片倉重綱の鉄砲部隊にやられているはずだろ?」という反論の矢が飛んできそうだが、大阪・堺市にある南宗寺には、“家康は夏の陣で死んだ”ことを思わせる数々の遺物が存在するのだ。果たして、家康は本当に夏の陣で命果てたのか?歴史の深い謎を検証する。

◆大阪夏の陣

大阪夏の陣は、慶長20年(1615年)5月6日と7日の2日間にわたり、徳川幕府軍と豊臣家臣・浪人衆との間で繰り広げられた戦いである。

5月6日、先方を任せられた後藤又兵衛の部隊は、大和川沿いの奈良街道を進んできた水野勝成の一隊と激突。猛勇で鳴らした又兵衛は、劣勢にも関わらず敵の大軍に突っ込み、終始死力を尽くして鬼神も寄せつけぬ奮闘ぶりを見せるが、多勢に無勢、最後は伊達政宗が誇る騎馬鉄砲部隊の凶弾に倒れた(道明寺の戦い)。

そして翌7日には、真田幸村毛利勝永などの豊臣軍が天王寺口で徳川幕府軍を迎えうち、激しい戦闘が始まる。勝永軍の勇猛果敢な進撃に突破口を見出した真田幸村は、徳川家康の本陣を急襲。徳川勢は大混乱の様相を呈し、家康も自害を決意するほどに追い詰められる。しかし、兵力に勝る幕府軍が最後は盛り返し、力尽きた幸村も無念の最後を遂げた。

真田幸村の猛攻を耐え忍んだ家康は首の皮一枚で生き延び、豊臣勢との最後の一大決戦に勝利した。これが、多くの人が信じて疑わない大阪夏の陣における“歴史の真実”である。

◆もう一つの“史実”を伝える南宗寺

大阪・堺にある南宗寺(なんしゅうじ)。この寺は、戦国時代の雄・三好長慶が父・元長の菩提寺として建立したと伝えられる。茶聖・千利休が禅の修行をした寺ともいわれ、往時を偲ばせる茶室や庵が今も残されている。

そんな風情と歴史を感じさせる古刹だが、奇妙な遺物や史料が残る。南宗寺の『南宗寺史』の記述を借りてみよう。

「大阪夏の陣で、家康は茶臼山における激闘に敗れ、駕籠に乗って逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれたが、辛くも脱して堺まで落ち延びた。…恐る恐る駕籠の扉を開けてみると、家康はすでにこと切れていた。何分戦時中なのですべてを秘密にして遺骸を仮に南宗寺の開山堂下に隠し、徳川の世となってからこれを久能山に改葬しさらに日光山に移葬した」

「そんなバカな」と疑われるかもしれない。しかし、この南宗寺には、家康の墓まで存在する。それは境内にひっそりと建つ小さな墓石で、この墓を『家康のもの』と認めたのが幕末の幕臣・山岡鉄舟である。傍らには、鉄舟の筆だとされる石板が添えられているが、当初は徳川慶喜がしたためる予定だったのを、山岡鉄舟が制して自ら筆をとったとされる。

さらに、同じく境内に“徳川家康の墓”と銘打たれた墓石が建っている。これは、昭和42年に建立されたもので、水戸徳川家の初代家老の子孫・三木啓次郎氏の手によるものだ。墓石の裏側には賛同者の名が刻まれ、その中にパナソニックの創業者である松下幸之助や、当時の堺市長、国務大臣や茨城県知事だった人の名が含まれている。

現代になって建てられた墓の撰文には、「当時より世上には一部伝えられていても広く大方には秘密同様になっていた。此処が大将軍徳川家康公の終焉の地であることは有力な史家が保証するところで又それを物語る文献遺物も幾多残されている」と記されている。

◆ここには、かつて東照宮が存在した…

南宗寺にあるのは、徳川家康の墓ばかりでない。日光や久能山しかないはずの東照宮も、かつてこの地に存在した。残念ながら、先の大戦による戦火で焼失したが、堺市立図書館には東照宮があったことを示す古写真が残されているという。

国指定重要文化財でもある南宗寺の唐門には、葵御紋の瓦が葺かれた屋根がある。言うまでもなく、三つ葉葵は徳川家の家紋であって、誰もが勝手に使用できるものではない。徳川家の菩提寺でもない南宗寺になぜそれが許されたのか、不可思議としかいいようがない。

南宗寺と家康とを結びつける奇妙な伝承は、まだまだ存在する。

江戸時代、代々の堺奉行は就任にあたり、まず南宗寺を詣でたという。そればかりか、正月、4月、9月の17日、つまり家康の月命日に合わせて権現祭を執り行い、4月17日の祥月命日には堺奉行の祭典参加を義務付けていた。堺奉行は江戸幕府の要職であり、幕府の強い意志がなければこのような南宗寺の行事はあり得ないだろう。

また、境内に建てられている坐雲亭には、「かつて徳川秀忠と徳川家光が訪れ、二回の窓から夏の陣の戦場を望んだ」との言い伝えが残されている。秀忠が訪れたのが元和9年(1623年)7月10日、家光が同じ年の8月18日となっている。この年は、ちょうど父子が征夷大将軍を交代した時期である。

二人の将軍がわざわざ堺まで足を運んだ理由は何か?坐雲亭の窓から、何を思って戦場を見つめていたのか?相当の理由がないとこの父子の行動は理解できないのではないか。

他にも、「財政緊縮政策をとっていた江戸幕府が、南宗寺には11通もの多額の朱印状を発行した」「堺の妙國寺から東照宮まで、権現道とよばれる通りが走っている」など、謎に包まれた痕跡は枚挙にいとまがない。この事実を、我々はどう受け止めたらいいのだろうか。

◆影武者を務めたといわれる小笠原秀政

正史では、家康は元和2年(1616年)、大坂夏の陣の翌年に亡くなったことになっている。仮に夏の陣で戦死していたとしたら、翌年まで生存したことになっている家康は一体誰だったのか?

この謎を埋めてくれるのが、家康の影武者を務めたといわれる信濃松本藩城主・小笠原秀政の存在だ。秀政は、夏の陣に参戦、本田忠朝の部隊を救援するなどそれなりの活躍を見せるが、天王寺の戦いにおいて豊臣方と激しく戦い、息子・小笠原忠脩(ただなが)とともに討死している。

その秀政は、実際には生きていて、家康と風貌が酷似していたことから、影武者の座に収まった、という説がまことしやかに囁かれている。

小笠原家は、次男の小笠原忠真が後を継ぎ、松本藩から豊前小倉藩へ移封されているが、特別な理由もなく、8万石から15万石へと、倍近く石高が加増されているのだ。そればかりでなく、小笠原家はその後、改易処分の身となるも、「父祖の勲功」があったとして改易の危機を免れている。この勲功というのが、本多忠朝を救援した働きによるものらしいが、改易を許してもらう理由にしては、何だか腑に落ちないというのが正直なところだ。

◆後藤又兵衛は生きていた?

冒頭で説明したように、後藤又兵衛は5月6日の道明寺の戦いで戦死している。死んでいるはずの又兵衛がなぜ、翌日の天王寺の戦いに参戦し、徳川家康を駕籠の外から攻撃できるのか。この謎を解明しなければならない。

歴史好きの方ならご存じかもしれないが、後藤又兵衛には生存説がある。夏の陣の死地をかいくぐった又兵衛は、身を隠して落ち延び、全国各地を転々としたという。又兵衛生存説は、奈良県宇陀市や大分県中津市など、各所にある。豪傑・又兵衛だけに不死身のイメージからくる伝説かもしれないが、南宗寺に残された数多い物証を見ると、ただの伝説と切り捨ててよいものか、謎が残る。

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◆歴史は、勝者が作ってきた

家康の死の真相はどうであったか、今になってそれを突き止めるのは難しい。しかし、古今東西の歴史は、常に勝者に回った側がつくって来た側面がある。自分たちの正当性を誇張し、権威を保持するためには、都合の悪い部分は出来るだけ排除しなければならない。歴史の補正は盤石な政治体制を敷くうえで欠かせないプロセスなのだ。

夏の陣において、総大将である家康が戦死した事実が知られれば、徳川幕府の権威は立ちどころに失墜しただろう。そして、世の中の趨勢は戦国時代同様、混沌として収まる気配を見せず、幕府体制を揺るがす勢力がまた現れるかもしれない。そう考えて、側近たちがあらゆる知恵を絞り、工作を施して家康の死をひた隠しにしたことは十分考えられる。

大阪夏の陣に隠されたもう一つの歴史。そこに目を向けて『真田丸』を見ると、また違った面白さを味わえるかもしれない。

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