連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第6回 『直政公御一代記』「井伊直親」


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古文書に魅了されて早うん年の戦国未来(せんごくミク)と申します。

今回ご紹介するのは、『直政公御一代記』より「井伊直親」です。井伊直親は、徳川四天王・井伊直政の父親で、井伊直虎の元婚約者です。

『直政公御一代記』は、中島家伝来の古文書で、彦根市に寄贈され、現在は彦根市立図書館が保管しています。原本の著者、成立年は不明ですが、写本には「文政12丑年6月写 忠敬」という奥付があります。

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では、早速、「井伊直親」について読んでみましょう。

【未来のお気軽訳】 井伊直親 父・井伊直満が(今川義元の命で)誅殺された時、井伊直親は9歳で、家来の今村藤七郎に抱かれて、信濃国伊那(現・長野県下伊那郡高森町)へ落ちた。その後、奥山因幡守頼持(朝利?)の計らいで、弘治元年(1555年)、井伊直親が20歳の時、井伊谷(現・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)へ帰り、奥山因幡守頼持の娘と結婚したが、家来の小野但馬守政次という者が、「井伊直親が寝返って徳川家康についた」と今川氏真に訴えると、「肥後守(井伊直親)は、駿府(今川氏の本拠地。現・静岡県静岡市)に弁明に来るように」と今川氏真が言ってきたので、井伊直親は、「そのような事はありません。駿府に行って弁明します」と使者に返事をして、旅支度をしていたところ、今川氏真と「好身」(よしみ。身近の親しい人)の新野左馬助親矩は、日頃から井伊直親とは「入魂」(じっこん。親しくつきあう間柄。懇意)であったので、新野親矩は、「貴殿が細心の注意を怠り、ほんの少しでも言い方を間違えると、身に危険が及ぶので、まずは私が駿府へ行って、貴殿がそのような事(徳川氏への寝返り)をしていないことを説明しておくので、貴殿はその後で駿府へ行けば安全である」と言って、駿府へ行き、「有増」(あらまし、概要)を伝えた。しかし、今川氏真は、掛川城主・朝比奈備中守泰朝に「肥後守(井伊直親)を掛川(現・静岡県掛川市掛川)に策を弄して呼んで討つように」と言ったので、備中守(朝比奈泰朝)は、井伊直親へ使者を送り、「貴殿が井伊谷に居て、新野親矩を駿府へ行かせて弁明させている件についてであるが、すでに屋形(今川氏真)が応じている他の裁判があるので、それらの裁決が済むまでは、我が城下町(掛川)へ参られて、弁明されるべきである」と伝えた。それで、井伊直親は、早速、掛川へ行くと、備中守(朝比奈泰朝)は2人の道案内を遣って、「城下町へ参られる件は遠慮していただき、まずは「在郷」(都会から離れた田舎)でゆっくりされるがよい」と伝えてた。掛川城下から約1里(4km)離れた原川村(現・静岡県掛川市原川)に宿が用意されていたので、井伊直親はそこに泊まることにしたのであるが、夜になって、掛川から「人数」(軍隊)を出し、「「御報」(お返事)であるが、問題の件は、駿府において、新野親矩が承り、今川氏真へ申し入れた。その結果の御返答は「成らず」であった」と告げ、指示通り、井伊直親を殺害した。このことを知った新野親矩は、「残念な結果になった。井伊直親殿へは出家してお詫びする以外に方法は無い」と後悔された。新野親矩は、「小身者」(禄が少ない人)ではあるが、日頃から多くの人々に慕われており、新野親矩が「否(いな)」と拒否すれば、遠江国の半数が新野親矩側に付く程、影響力がある人なので、今川氏真も、井伊直親の殺害については後悔されたようで、「扱い」(調停、仲裁)を入れると、「肥後守(井伊直親)に2歳の子(後の井伊直政)がいるという。この子を新野親矩へ与え、保護観察期間中は、その子の死刑執行を猶予する」という追加事項を渋々受け入れたので、井伊直親の2歳の遺子(後の井伊直政)は、新野親矩の井伊谷の屋敷で養育されることになった。そして、その遺子が5歳になった時、浜松城主・飯尾豊前守連龍が、徳川家康に内通したので、今川軍は出兵して、天竜川に近い小林村(現・静岡県浜松市浜北区小林)に「砦の城」(陣城)を築き、その城主を新野親矩に命じた。城が完成し、兵糧を入れると、豊前守(飯尾連竜)はこの事を知り、徳川家康に報告すると、徳川家康は、援軍を送り(飯尾軍と合流して)、天竜川で1日の内に2度、3度と戦った。3度目の戦いの時、新野親矩が討死した。筧助太夫も討死した。新野親矩が討死したので、「万千代(井伊直政の幼名)を差し出すように」と今川氏真が新野親矩の後家(奥山朝利の妹)に言ってきたが、「万千代は出家しましたから」と言って、ついに差し出すことはなかった。そして、万千代は、新野親矩の伯父が出家して住職となっていた浄土寺へ逃げた。永禄10年(1567年)、今川氏真は、甲斐国(現・山梨県)の武田信玄が、駿河国(現・静岡県中部地方)に侵攻してきたので、掛川城主・朝比奈泰朝を頼って掛川城に入った。これにより、今川氏は滅び、「遠州劇(遠州騒動)」と呼ばれる混乱状態が終わった。浄土寺の住職と珠源という小僧、おく殿という乳母が、万千代を抱いて、三河国の鳳来寺(愛知県新城市)へ落ちていたが、「遠州劇」が終わって静かになったので、万千代の母(奥山朝利の娘)は、松下源太郎清景と再婚し、万千代は、鳳来寺から松下清景のところへ来て、14歳まで松下清景が養育した。

<写真1:井伊直親像(龍潭寺)>

※「井伊直親像ってどこにあるの?」と聞かれるけど、龍潭寺の御霊屋(おたまや)にあります。御霊屋には人物像が3体(共保・直盛・直政)しかないと思ってる人が多いようですが、見上げれば見つかります。

さて、

──『直政公御一代記』の内容は、通説とは違う。

どこが違うかと言えば、

①井伊肥後守直親が討たれた状況

②新野左馬助親矩が討たれた状況

です。

《井伊肥後守直親が討たれた状況》

<写真2:十九首塚史跡公園(静岡県掛川市十九首)>

掛川城下の西の入り口に「十九首塚」とよばれる19基の塚があった。その名の由来には、

①十九所祠の神社名説

②平将門以下19人の首塚説

③辞世(和歌)19首説

④井伊直親以下19人の首塚説

があった。現在は1基を残して均されたが、出土品を見ると、戦国時代よりも古いものであったので、「井伊直親以下19人の首塚説」は完全否定され、「平将門以下19人の首塚説」が最有力説となった。

「天慶3年(西暦940年)天慶の乱で没した平将門をはじめとする19人の首塚を祀る首塚です。地域の守り神として毎年春、秋の彼岸と、特に夏の8月15日の命日には区民参加の供養祭が盛大に行われています。」(案内板)

しかし、現地へ行ってみると、否定されたはずなのに、「井伊直虎ゆかりの地」の赤い幟が立っていた。「関係ないのでは?」と疑問に思って理由をお聞きすると、「このあたりで、元婚約者の井伊直親が討たれたと伝えられているから立てた」ということであった。『直政公御一代記』が正しければ、井伊直親は、「昼間、駿府に向かっていたところ、十九首塚付近で、朝比奈軍に取り囲まれて討たれた」のではなく、「夜、原川村の宿にいたところを朝比奈軍に討たれた」となる。朝に浜松を出ると、島田で夜になるというから、朝、井伊谷を出れば、ちょうど掛川あたりで日が暮れそうだ。

井伊直親が何人で駿府に向かったのかは分からないが、朝比奈泰朝の目的は、「全滅」ではなく、「井伊直親を討つこと」であったので、井伊直親を討った時点で終了。生き残った者が、首の無い遺体を祝田の直親屋敷(別名:祝田城)まで運んだという。首は掛川城下に晒されたが、蜂前神社の神主の弟が、夜の闇に紛れて盗み出して、祝田に持ち帰ったという。

《新野左馬助親矩が討たれた状況》

 

<写真3:安間橋>

「新野左馬助親矩は、引馬城攻めの時、天間橋で討たれた」が通説であり、「駿府今川館に弁明に来た引馬城主・飯尾連龍を討とうとして討たれた」が異説である。

「天間橋」は存在しない。学者は「天間(あめま)」で「安間(あんま)橋」のこととしているが、安間橋は引馬城から遠いので、私は「天間」を「てんま」と読んで、引馬城の南の「伝馬(てんま)橋」だと考えている。『直政公御一代記』が正しのであれば、小林で探せば、「天間橋」が見つかるかも?

《井伊紀行「可睡斎(かすいさい。静岡県袋井市久能)」》

 12月15日は、全国に神社本庁登録社だけでも約800社あるといわれる秋葉神社の例祭日です。小祠も入れれば、数万社あるであろう秋葉神社のどこのお祭りに行こうかと悩みますが・・・本家本元は、

・秋葉総本殿可睡斎(「秋葉の火まつり」は12/15)

・秋葉山本宮秋葉神社(「火まつり」は12/15・16)

です。と聞いて、

──秋葉総本殿可睡斎は久野城の近くの寺で、秋葉山本宮秋葉神社は犬居城の近くの神社で、武田信玄の西上作戦コースを逆回りで攻めてみるか。

と思ったあなたは、立派な城ガール(ボーイ)です。

<写真4:秋葉総本殿可睡斎>

 江戸時代の「秋葉大権現」とは、「三尺坊大権現」という天狗(修験者)でしたが、明治6年(1873年)の神仏分離で三尺坊大権現は可睡齋に遷され、秋葉山本宮秋葉神社の神は、火之迦具土大神に代わりました。

──ところで、井伊家と可睡斎って関係あるの?

なにはともあれ、可睡斎へ行ってみると・・・

<写真5:井伊直勝の墓>

おお! 十九首塚史跡公園で見た赤い幟があるぞ!

井伊直勝の墓ですね。

<写真6:井伊直好の墓>

おお! ここにも十九首塚史跡公園で見た赤い幟があるぞ!

井伊直勝の墓ですね。

井伊直親の子・直政には2人の子がいました。

正室の子・直勝と側室の子・直孝です。当然、直勝が直政の跡を継いだのですが、

──病弱である。

という徳川家康の一言で、嫡男が交替し、直孝が彦根藩主となりました。直勝は、

──移封先は掛川藩がいい。祖父・直親の菩提を弔いたい。

と申し出たのですが、聞き入れてもらえませんでした。しかし、直勝の子・直好が掛川藩主になったので、隠居していた直勝も掛川へついて来て、亡くなりました。

<参考:掛川城 歴代城主>

①朝比奈備中守泰煕  ②朝比奈備中守泰能  ③朝比奈備中守泰朝
④石川日向守家成   ⑤石川長門守康通   ⑥山内対馬守一豊
⑦松平隠岐守定勝   ⑧松平河内守定行   ⑨安藤帯刀直次
⑩松平越中守定綱   ⑪朝倉筑後守宣正   ⑫青山大蔵少輔幸成
⑬松平大膳亮忠重   ⑭松平遠江守忠倶   ⑮本多能登守忠義
⑯松平伊賀守忠晴   ⑰北条出羽守氏重   ⑱井伊兵部少輔直好
⑲井伊伯耆守直武   ⑳井伊兵部少輔直朝  ㉑井伊兵部少輔直矩
㉒松平遠江守忠喬   ㉓小笠原壱岐守長煕  ㉔小笠原山城守長庸
㉓小笠原能登守長恭  ㉖太田摂津守資俊   ㉗太田備中守資愛
㉘太田備中守資順   ㉙太田備中守資言   ㉚太田備中守資始
㉛太田備中守資功   ㉜太田備中守資美

 

<写真7:浜松城の裏鬼門封じの浜松秋葉神社の金木犀>

アイキャッチ画像は、祝田の井伊直親の墓です。案内板の横の木は、井伊直親の潜伏先の高森町の方々が来て植えた高森町の「町の木」の金木犀です。皮肉なことに(?)、井伊直親が討たれた掛川市の「市の木」も金木犀です。

どうでしたか?

感想をコメント欄に書いていただければ幸いです。

では、最後に原文を載せておきますね。今回の記事を参考に、解読に挑戦してみてね。

直親公
直満公御傷害之御時分直親公九歳御家来今村藤七奉抱信州伊奈江立退其後奥山因幡頼持之致計策弘治元乙卯直親公二十歳之時井伊谷江御則奥山因幡始而一所仕聟ニイタス然処家来小野但馬ト云者権現様江直親公返シ申由今河氏眞二訴申二付肥後守駿州江罷越申分ケ可仕之由仰氏眞被申越候二付直親公全左様之儀無御座候追付罷下り可申分ト御支度被遊候処新野左馬助今河氏眞ト好身二而日頃直親公御入魂故左馬助被申者貴殿之不細法二而一言半句ソコナイ有テハ身之大事二可成二我等罷下リ貴殿全左様之事無之返り可申分先貴殿下リ被申候儀ハ無用二被申左馬助駿州江下り氏眞江二有増被申入候然処従氏眞懸川之城主朝比奈備中守二被申付肥後守ヲ懸川江謀り寄テ討被申由被申付依之備中守方ゟ直親公江貴殿ハ在所二罷有候左馬前を駿州江下シ被申分ケ段之対尾形江応外之仕分候間我等城下迄披参申分ケ可然ト申遣ス直親公早速懸川江御越之備中守道中二人ヲ附置城下江被参候儀遠慮可然と在郷江落付可被申由二而懸川之城下ゟ一里斗二隔原河村ト云所二旅宿申付置直親公御宿之夜懸川ゟ人数ヲ出シ被召御報ハ右之趣於駿州佐馬助承り氏眞江申入候肥後守儀申上候処返答不被成備中守二被仰付候儀御恨至極奉存候此上者出家仕候ゟ外者無御座候ト被申候左馬助事小身者二有之候へ共日頃人々用ヒ申仁二而左馬助否ヲ申候ハバ遠州半国ハ左馬助手ニ付申程之きこへ有仁二而候故氏眞も後悔二相見江扱を入レ而被申候ハ肥後守二歳之子有之由二候此子ヲ左馬肋江給候間可致堪思之由二而漸相添二歳之御子出佐馬肋所二養育仕候五歳之御時浜松之城主飯尾豊前 権現様江内通仕二者氏眞ゟ好押之天龍川近所二小林村と云所二取出之城を構存之城主二左馬助被申付城出来兵糧を詰申儀豊前承之 権現様江申上候則従権現様御人数ヲ被出天龍川二おゐて一日二三度駈合之合戦有之三度目之合戦二左馬助討死筧助太夫討死之由左馬助討死以後氏眞より万千代君ヲ出シ申様ニと左馬助後家所江申来ル出家致由申而終ニ出シ不申候左馬助伯父出家浄土寺江本内ニ落シ申候永禄十丁卯氏眞甲州信玄駿州を押シ遠州懸川之城主朝比奈備中守所江被落依之遠州騒動夥敷其節浄土寺之住寺并珠源ト申小僧おく殿と申乳母万千代君ヲ奉抱三州鳳来寺江落行被申候遠州事静り候以後万千代君之御母儀様二者松下源太郎江嫁申候依之万千代君二者鳳来寺ゟ源太郎所江御越御十四歳迄松下源太郎養育仕候

(つづく)

連載:戦国未来の古文書お気軽読み 第1回 『以貴小伝』 築山殿(長男・松平信康の母)
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