二条城とは~京都における徳川家康の滞在先の魅力


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現在の二条城は、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が建造を決めた城。

この二条城(にじょうじょう)の歴史について、できる限り詳しくご紹介したい。

1601年5月、徳川家康は上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決め、京の町屋や住民を立ち退きさせた。
12月、西国諸大名に造営費用および労務の割り当てを行い(天下普請)、造営総奉行に京都所司代・板倉勝重、作事(建築)の大工棟梁には中井正清が任じられた。
1602年5月、御殿・天守の造営に着工し、1603年3月に落成。但し、天守は1606年に完成。

1603年2月12日、徳川家康は伏見城にて征夷大将軍への補任の宣旨を受け、3月12日に竣工間もない二条城に入城。
2月25日、室町幕府以来の慣例に基づく「拝賀の礼」を行うため、御所への行列を発した。それに続き、2月27日、二条城において重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。

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1611年、二条城の御殿(現在の二の丸御殿)において、徳川家康と豊臣秀頼が会見(二条城会見)。この時、徳川家康は豊臣秀頼の成長ぶりに驚き、徳川家の天下が覆されるかもしれないとの危機感を抱き、豊臣氏を滅ぼすことを決意したとも言われている。

1614年、大坂冬の陣が勃発。二条城は大御所(徳川家康)の本営となり、伏見城から出撃する将軍・徳川秀忠の軍勢に続き、徳川家康は二条城から大坂へ軍を進めた。

1615年、大坂夏の陣では、豊臣勢が二条城に火をかけ、混乱の中で徳川家康を暗殺しようとした陰謀が明らかとなり、徳川方についていた古田織部の家臣・木村宗喜が捕縛された。
このため吉田織部は切腹、家財没収となっている。

1619年、徳川秀忠は娘・和子の後水尾天皇への入内に備え、二条城を改修。この時の縄張は徳川秀忠と藤堂高虎が共に行った。

1620年6月18日、徳川和子は二条城から長い行列を作り、後水尾天皇のもとへ入内。

1624年、徳川家光が将軍になると、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるため大改築が始まった。
城域は西に拡張され、天守閣も拡張された西側に位置を変え、廃城となった伏見城の天守を移築。
作事奉行には小堀政一、五味豊直(後の京都郡代)が任じらた。
尾張藩や紀伊藩などの親藩・譜代の19家が石垣普請を担当している。

幕末の1867年9月には、15代将軍・徳川慶喜が宿所を若狭小浜藩邸から二条城に移し、10月には二条城に諸国の大名を集めて、大政奉還を宣言した。

下記写真の二の丸御殿・唐門は重要文化財。
 

二の丸御殿の6棟が国宝となっており、内部を見学できる。ただし、建物内部は写真撮影禁止。
御殿の廊下は「うぐいす張り」となっており、歩くと「キュッキュ」と板から音が出る。外部侵入者の危険探知の為に設けられたとされており、戦国末期~江戸初期に建築された京都の寺院には良く見られる。

なお、横浜の三渓園に、二条城内にあった書院造の建物「聴秋閣」とされる建造物が現存する。

徳川家光が春日局に与えた建物で、江戸に移築されていたと言う事になる。

二条城への旅もご覧頂けますと幸いです。 

徳川家康がなぜ天下を取れたのかを検証「人財智生」
後水尾天皇~徳川幕府との熾烈な闘争に勝ち抜く~
三渓園の楽しみ方~単なる庭園ではない歴史的建物が豊富な横浜本牧の観光名所

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  1. 2015年 2月 20日

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