小幡昌盛と真田丸に果敢にも突撃した小幡景憲とは?【甲州流軍学者】小幡虎盛も

小幡昌盛とは

小幡昌盛(おばた-まさもり)は、小畠虎盛(小幡虎盛)(おばた-とらもり)の次男として1534年に生まれた。
まずはこの小幡氏について触れたい。
小畠氏(小幡氏)は遠江・勝間田(牧之原付近)の出身で勝間田城主・勝間田修理亮の一族だったようだ。
1476年に今川義忠に攻められて勝間田修理亮が討死し、一説によると一族は御殿場に逃れたとされるが離散したようだ。

1500年に小畠日浄(おばた-にちじょう)と名乗っていた勝間田盛次と、その子である小畠虎盛(おばた-とらもり)が、甲斐の武田信虎に仕官すると浪人衆として足軽大将を任じられた。
1514年に小畠日浄が死去すると小畠虎盛(小幡山城守虎盛)が家督を継いでいるが、小畠虎盛はその武勇から「鬼虎」と呼ばれ、原虎胤横田高松、多田三八郎、山本勘助らと「武田の五名臣」と称される有能な武将だったようだ。
小畠虎盛は参加した合戦が36回、感状36枚、傷の数は41ヶ所と言う歴戦の勇将で、武田信玄の代になっても活躍し、海津城主・高坂昌信の副将として1561年には海津城・二の丸の守備も担当した。
その小畠虎盛(小幡虎盛)の子が、今回はじめにご紹介する小幡昌盛の父と言う事になる。


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小幡昌盛の初陣は16歳の時で、小笠原長時との戦にて、6箇所の傷を負うも丸山筑前守を一騎打ちで討ち取り、武田信玄より長刀「一文字」を授けられた。
また、小田井城攻めでは、二の丸の守将・小田井次郎左衛門と家老を討ち取るなど、このような武勇により「鬼の子には鬼の娘が相応しい」と、武田信玄の考えで小幡昌盛は鬼美濃・原虎胤の娘を正室に迎えている。

父・小畠虎盛(小幡虎盛)が1561年6月2日に死去(享年71)したが、臨終の際に「よくみのほどをしれ」と言う9文字の遺言で子孫を戒めたという。

小幡家の家督を継いだ小幡昌盛は、引き続き春日虎綱(高坂昌信)の補佐を命じられた。
しかし、武田信玄の側(旗本)でいたいと申し出たため、武田信玄の怒りをかい甲府妙音寺に蟄居処分となる。
更には切腹を命じられたが武田勝頼土屋昌続の助命嘆願により許され、所領1800貫から700貫に減給され、部隊も騎馬15騎足軽75人から騎馬3騎足軽10人となったが、武田信玄旗本として復帰したようで鉄砲衆ともあり、祈祷奉行も担当したようだ。

ちなみに、海津在番の後任は叔父・小幡光盛が務めている。

1569年の三増峠の戦いでは、小幡昌盛は検使として武田信玄の弟・一条信龍の部隊に所属。
この時は、一条信龍の手柄を補佐したと武田信玄より賞賛された。
※検使と言うのは部隊の目付・監督で、部隊長が討死した際には指揮権が委ねられる重要な役割。

1582年に織田信忠の軍勢が甲斐へと侵攻した際に、小幡昌盛は病床で戦えなかった。
新府城から天目山へと落ち延びる武田勝頼一行が甲斐善光寺に立ち寄った際には、謁見すると暇乞いをし、まもなく1582年3月6日に死去した。享年46。
その5日後に進退窮まった武田勝頼も自刃している。

小幡昌盛の嫡男・小幡昌忠(小幡又兵衛昌忠、小幡藤五郎昌忠)は、武田滅亡直後、徳川家康に仕えたようで、平原宮内が密かに北条氏直に内通したとして討ち取ったので、徳川家康が剛の者であると称されている。

小幡昌盛の次男・小幡在直(小幡孫次郎在直)は武田滅亡の時15歳で、伊勢へと放浪すると織田家の家臣・土方道由の養子となった。
その後、徳川家康に見いだされて、井伊直政の家臣・広瀬美濃守(旧武田家臣)の娘と結婚して養子入りし、井伊家の家臣となり彦根藩士として幕末まで続いた。


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小幡景憲とは

小幡景憲(おばた-かげのり)は、その武勇名高い小幡昌盛の3男として1572年に生まれた。

武田滅亡時は海津城にて叔父・小幡光盛と共に詰めていたようで、武田が滅亡すると越後・上杉景勝に叔父と共に臣従したようだ。
この時、小幡景憲(小幡勘兵衞景憲、小幡勘三郎)は僅か11歳である。
その後、徳川家康に仕えた兄らと共に徳川家の家臣に加わると、200石にて徳川秀忠の御小姓となったが、1595年に出奔し放浪の身となったが諸国を巡り兵法を極めた。

しかし、兄の世話にはなっていたようで、1600年の関ヶ原の戦いでは井伊直政の部隊に加わって武功を挙げたとされている。

1614年、大阪冬の陣では、真田信繁(真田幸村)が守備する「真田丸」に対して、前田利常の家臣・富田重政の部隊に属し、皆がなかなか真田丸に接近できない中、小幡景憲ひとりが奮戦したとされる。

「そちらの真田もまた武田の武士なり。汝が父・安房守と、我父・豊後守は、もとより同僚たり。今わかれて両陣にあり。我輩は汝と槍を合わせむ事を!」と真田丸に4度も叫んだとも伝わる。

その後、不始末を咎められて山城狼谷にて浪人していたところを、豊臣方の大野治房が家臣・鈴木左馬助を通じて大阪城に招いたとされる。

このように、豊臣秀頼の味方として大阪城に入場したが、実は徳川家康に内通しており、江戸幕府・京都所司代の板倉勝重に内情を通知していたと言われている。
特に大阪城での軍議では、豊臣勢を混乱させるため、あえて反対の事を進言するなどしたとある。

その後、京都・妙心寺から大野治房や塙直之に対して「小幡景憲は徳川家の板倉勝重などに城内のことを報告をしている」との書状が届いたと言う。
小幡景憲は「そんな人たちの事を信用していたら徳川勢には勝てない」と芝居をうったが、大野治房は用心のため自身の屋敷内に小幡景憲の私邸を建築して住んでもらう事を提案する。
快く受け入れた小幡景憲であったが、私邸の建築状況を見に行くなどの理由を付けて大阪城を出ると、監視を振り切って伏見へと逃れた。
そして、夏の陣では徳川秀忠のもとで、首級を挙げている。

豊臣家が滅んだ後は、500石にて徳川家の旗本(御使番)に復帰するとのち1500石を領している。
のち、横田尹松の末子(6男)である横田縄松(つなとし)を養子に迎えた。
ちなみに横田縄松(小幡綱松)の母は山県昌景の娘。

小幡景憲は武田の軍略に詳しく江戸時代に甲州流軍学が人気となると、北条流軍学の北条氏長、近藤正純、富永勝由、梶定良など約2000名が小幡景憲から教えを得ている。
山鹿流兵法で有名な山鹿素行も15歳のときから小幡景憲より軍学を学んだ。
毛利秀元徳川頼宣、細川光尚、浅野長治、松平信綱と輝綱、稲垣重綱、永井尚政、松平定綱、水野忠胤、松平忠房といった大名も入門して学んでいる。

また、軍学書「甲陽軍鑑」の出版にも春日虎綱の甥・春日惣次郎と共に小幡景憲(小幡勘兵衛)が携わったことで知られる。

1663年4月3日に92歳で死去。

墓所は厚木の蓮生寺(れんしょうじ)と、東京の法明寺にある。


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蓮生寺の小幡家墓所

と言う事で、蓮生寺を訪問させて頂いた。

小幡景憲の直系は、小幡綱松・小幡景松・小幡景利・小幡景房・小幡景介・小幡景明と続いていると言う。

下記写真の真ん中にある屋根付きの大き墓石が小幡景憲の墓となる。

小幡景憲の墓

なお、一番右の宝印塔にも、小幡景憲の墓と同様に「花筒(花立て)」があり、明らかに別格なので非常に気になった。

若気の板垣トップさんと言うサイトにて、この一番右の宝印塔に刻まれている没年は、武田滅亡時の1582年6月6日であると解説されておられる。

そうなると、若気の板垣トップさんご指摘のとおり、武田信玄のもとで活躍した小幡昌盛が死去した1582年3月6日と、まさに1字違いであり、誤記なのか?と小生も疑ってしまうが、一番右の立派な宝印塔の主は不明である。
ただし、風化状況からすると、江戸初期に建てたものではないように思えるので、後年に供養の為、御子孫が建立したと見て良いだろう。

蓮生寺の小幡家墓所がある場所は、ちょっと分かりにくかったので、下記の地図ポイント地点にて示させて頂いている。
蓮生寺の門前に駐車場あり。

ちなみに、蓮生寺は、中依知・本間氏館跡になる。
本間重連(本間六郎左衛門重連)は、鎌倉時代の御家人で、依知領主だが、本間氏の屋敷は他にも、上依知・本間屋敷(妙傳寺)、金田の本間氏館(建徳寺)と3つある。
本間六郎左衛門尉重連(ほんまろくろうざえもんのじょうしげつら)は、佐渡国の守護代で、1271年に日蓮が、鎌倉佐渡に流される際に、依知の本間氏の屋敷にて約1ヶ月間、滞在した。(全部の屋敷跡に滞在の伝承がある)

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