織田信包の解説~(織田三十郎信包・織田上野介信兼)織田信長の弟としての生涯をわかりやすく

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織田信包とは

織田信包(おだのぶかね)は、戦国時代の1543年に誕生したとされる。
父は尾張の戦国大名織田信秀で、母は土田御前?とされる。兄に織田信長がおり9歳年下の弟となる織田信包は4男とされるが、正確なところは不明である。

織田信包

1551年に、兄・織田信長が織田家の家督を継いだ。

1569年、織田信長の命で北伊勢を支配する長野工藤氏(長野氏)長野藤定の娘と結婚して養子入りし、伊勢・上野城を居城とした。
こうして長野信良を名乗り50000石にて、分部光嘉とともに伊勢支配を進めたが、その後、織田信長の令によってこの養子縁組を解消し、織田姓に復帰したが、旧長野家の家臣団はそのまま引き継いだ。


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1570年には姉川の戦いにも参加。
下記は丹波・柏原陣屋近くにある織田信包の銅像。

織田信包の銅像

1573年の浅井長政討伐では、正室であった妹のお市の方と、その娘たちである茶々(淀殿)・お初(常高院)、お江与(崇源院)を居城・上野城にて保護し、以後扶養したとされる。

1574年には、長島一向一揆攻め、1575年には越前一向一揆攻めなどに参加。
同じ伊勢に勢力を張った甥の織田信雄と協力し、1577年には長野家重臣の細野藤敦を追放して長野家の完全統制に成功。
伊勢・上野城主に入ると、まもなく伊勢・安濃津城を改修して本拠としました。

安濃津城

その後は当主の織田信忠に従い、1577年の雑賀攻めにて織田信包(35歳)は、織田信忠、織田信雄、織田信孝と共に雑雅衆を次々と駆逐しながら、紀伊国へ侵攻して中野城を攻囲。
1578年には石山本願寺攻撃にも参加し、次いで、織田信包は、織田信忠、織田信雄、織田信孝、細川藤孝佐久間信盛と共に播磨国へ出陣し、神吉城攻略戦では、城兵の手薄な南方を担当した。
1578年11月には、織田信長に叛旗を翻し、黒田官兵衛を捕らえていた荒木村重の征伐戦に参加し、伊丹城攻略戦では、織田信雄、滝川一益らと共に布陣。
1579年3月には織田信忠、織田信雄、織田信孝と揃って上洛して、織田信長に挨拶し、4月には播磨国へ出陣した。
なお、播磨・但馬平定において、羽柴秀吉にどの程度協力したのかは、良くわかっておらず、帰陣した時期も不明である。


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1580年には、本拠を上野城から津城へと移して、伊勢・安濃津城(津城)を拡張し天守閣を建立。津町を阿漕の旧地から城下に移して、住民に公課免除の特典を与えた。

織田信包は織田一族の重鎮として甥の織田信忠、織田信雄の補佐も務めた。
1581年の京都御馬揃えでは、織田信忠80騎、織田信雄30騎に続いて、織田信包が10騎を率いて実質的に一門でNo3の地位であり、次いで織田信孝が10騎となっていた。
また、1581年、織田信雄とともに伊賀を討伐し、伊賀にも領地を得た。

1582年正月には安土城での年賀に列席。
1582年6月、明智光秀が謀反を起こした本能寺の変が勃発した際、織田信長の兄弟で最も頼りになる有能な武将であったが、元来は穏やかで争いを好まない性格だったようで野望も無い事から、織田信包(40歳)は特に何もしなかった。
清洲会議のあと、織田信雄や豊臣秀吉に従って伊勢安濃津150000石を領する事となり「津侍従」と称された。
1583年の賤ヶ岳の戦いでは羽柴秀吉に協力。柴田勝家・織田信孝と対立し、滝川一益に攻め込まれた岡本良勝ら伊勢衆を救援し、峰城を攻略している。
1584年の小牧長久手の戦いでは当初中立であったが、羽柴秀吉からの調略に応じて織田信雄と決別し、織田信雄・徳川家康らを相手に戦った。戦後、伊勢での加増を受け、以降も羽柴秀吉に従っている。


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1585年の佐々成政討伐に参加。
1588年、従三位左近衛少将に叙任。
1590年の小田原攻めには3500を率いて参陣し、北条氏政北条氏直を相手に、宇喜多秀家らと小田原城包囲に加わった。
この時、北条氏政・北条氏直父子の助命を嘆願した事が、豊臣秀吉の怒りをかったと言う。
 
その後、1594年9月に豊臣秀吉の命で改易となった。改易の本当の理由は不明だが、表向きには太閤検地の不正発覚として、検地によって石高増加となったものの、その割には役儀を疎かにした事を咎められたとされている。
この時、織田信包は出家して「老犬」と号し、京都の慈雲院に隠棲したが、長男・織田信重には伊勢・林10000石が与えられている。
のち、織田信包は豊臣秀吉の御伽衆となり近江に20000石を与えられると、1598年には丹波・柏原に36000石となった。


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豊臣秀吉の死後も一貫して豊臣家側に付き、関ヶ原の戦いでは西軍・石田三成に協力。15000の兵にて細川忠興の居城で、細川幽斎が籠城した田辺城を攻めた。
しかし、東軍の徳川家康が勝利しても、織田信包には特にお咎めもなく本領の丹波柏原は領土安堵。乱世を生き抜く武将として、ここでも非凡な処世術を発揮している。
ちなみに、長男・織田信重は東軍に与していた。

1614年の大阪冬の陣においても、大阪城豊臣秀頼を補佐したが、1614年7月17日、大坂城内での軍議中に吐血し、急死した。享年72歳。
片桐且元による毒殺の噂が流れたが、定かではない。
家督は3男・織田信則が継承している。

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