筑波・小田城と小田氏治の頑張り~8回も奪還を試みた小田城は防御は弱かった?


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茨城県つくば市にある国指定史跡小田城」と、常陸の大名「小田氏」の記録です。

常陸・小田城

茨城県つくば市小田にある常陸・小田城です。
おだはおだでも、織田信長の織田ではなく、小田のほうになりますが、織田家よりは、たぶん、小田家の方が歴史もある名門でございます。

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戦国時代にも一応は戦国大名として君臨したと言えるかと存じます。
結構、頑張りました。

もともとは、源頼朝に従い、鎌倉幕府創設に軍功を上げた、宇都宮宗綱の子の八田知家が筑波郡に領地を与えられて、1185年に常陸守護に任じられると、小田に居館を構えたものが、小田城の始まりとなります。
1192年に小田城を築城したとされるますので、それから、約400年間も、ここ小田城に城(館)があった訳です。

八田知家の子・八田知重まで八田姓を名乗ったようですが、4代・小田泰朝からは、以後「小田姓」を称しており、筑波地方にて戦国時代末期まで中心的役割を果たしました。

常陸・小田城の主郭(本丸)は約120m x 120mと、ほぼ正方形です。
ようするに、鎌倉時代からある方形館(ほうけいやかた)で、そのまま使用されてきた、非常に伝統も感じさせる本丸となっています。

最初は、主郭の回りに1重の堀を巡らした程度だったようです。
しかし、小田家も安泰だった訳ではなく、南北朝時代から戦国期にかけて、なんども実戦を経験しています。
そのため、小田城も少しずつ拡張され、意外と広大な面積の平城へと発展しました。

最終的には、堀は3重~5重、深さはそんなでもありませんが、堀の幅は30~50m程度もあり、場所によっては、畝堀や障子堀もあったと考えられる「総構え」の強固な防御陣地と化しています。
近年の調査で小田城は、霞ヶ浦に注がれている桜川の水を堀に利用していたと考えられ、霞ヶ浦へ出る水運も機能していたようです。

そして、現在の小田集落の中心部の大半が、小田城の城域に含まれていると言う、茨城県では有数の規模であり、また全国でも屈指の中世平城遺跡と言えるでしょう。

時はさかのぼり、南北朝時代、城主の小田治久が南朝側に属し、小田城は南朝の常陸南部拠点にもなっています。
1339年、北畠親房が小田城にて「神皇正統記」を執筆したのは有名です。
このように小田城が南朝側=現在の天皇の先祖に協力した「勤皇」の象徴ということで、恐らく天皇の為にと、軍事力拡大する軍部の国策的によって、昭和11年(1936年)に、小田城は国指定史跡に指定されました。

小田城は筑波山近くにありますので、標高としては20m前後と推定されます。
このように平城なので、敵が攻めてきても、高低差で有利なことはありません。
すなわち、戦国時代末期としては、防御力は非常に心配なのが小田城でした。

そのため、戦国時代の小田氏治(おだうじはる)の戦歴を見ても、小田城が簡単に陥落しているのが良くわかります。

1556年、結城政勝が北条家から援軍を得て、小田領内に侵攻したため、海老ヶ島の戦いとなりますが、小田氏治は敗れます。
そして、海老ヶ島城を失っただけでなく、本拠・小田城も奪われたので、重臣・菅谷政貞の土浦城に逃れました。
この菅谷政貞と言う武将が、なかなかの武将だったのが、小田家の救いでして、翌年には小田原城主・北条氏康と和解して、結城勢から小田城を奪還しています。
これが1回目の奪還と明記させて頂きます。

しかし、その1557年、今度は、佐竹義昭が海老ヶ島城を攻撃してきて、佐竹家に敗北し、再び、土浦城へ敗走しました。(2回目の小田城・落城)

1559年に、結城政勝が死去すると、所領奪還のため、頑張って結城城を攻撃し、小田城も回復させた模様です。
しかし、真壁氏幹などの反撃にあい、北条城・海老ヶ島城が落城しました。
ただし、小田城はキープしていたものと推測されます。

今度は、越後の上杉謙信です。
1560年に上杉謙信が関東に軍を出すと、関東の多くが上杉家に従ったように、小田家も北条家から上杉家に寝返っています。
1561年、小田氏治も小田原城攻撃に参陣しました。
しかし、1562年、小田氏治は北条氏康からの要請を受けて、再び北条家に臣従し、人質として子の小田友治を小田原に差し出した模様です。
このような裏切りが嫌いなのが、上杉謙信です。

1564年、十分な兵を集める前に上杉謙信と佐竹義昭から小田城を攻められて、藤沢城へ敗走します。
3回目の小田城陥落となりますが、まぁ、簡単に降伏するよりは、潔いかも知れません。

小田城は佐竹勢に接種され、このとき、小田城が佐竹によって改修された可能性がありますが、1565年に奪還成功しています。
こうして、何度も小田城を奪還できたりしたのは、どうも、領民がお殿様を慕っていたからだとも考えられています。
すなわち、有能な菅谷政貞と言う家臣がいたことだけでなく、領民の力添えもあったようです。

しかし、1566年には、再び上杉謙信の攻撃を受けて、小田城からまたしても敗走しました。(4回目)
この時は、甲斐の武田信玄に出陣してもらえないか?と頼みますが、うまく行かなかったため、1568年、小田氏治は上杉謙信に降伏を申し出ています。
ただし、交渉はうまくやったようでして、小田城への復帰が許可されました。
おっと、すみません。降伏していますね。

無事に小田城に戻りましたが、面白くないのは、佐竹氏です。
1569年、佐竹義重が攻め寄せると、小田城で防御するのではなく「野戦」に出てみましたが、この時は、なんと佐竹勢に大勝したようです。
久しぶりの大勝利ですね。
1570年にも、結城晴朝が攻めてきていますが、菅谷政貞の発案か?、夜襲を掛けて、これまた2連続勝利しています。
ただし、谷田部城を失っています。

次が問題です。

1571年のお正月、小田城では、毎年恒例の連歌会が、大晦日から行われていました。
その情報を知っていたのでしょう。
佐竹勢の太田資正が、元旦の明け方に、小田城を奇襲したのです。
家臣の北条氏高が佐竹に寝返っていたと言う事もあったようで、小田氏治は5回目となる、小田城からの敗走を余儀なくされました。

ただし、小田氏治は決して諦めません。
すぐに5500の兵を整えると、佐竹勢を破って2月には小田城を奪回しました。

しかし、小田氏治、最大の試練となった手這坂の戦いで、佐竹義重・太田資正に大敗を喫します。
そして、小田城から土浦城へ敗走し、さらには藤沢城へと逃れました。(6回目)
なお、手這坂の戦いがあった年月は諸説あります。

のち、防御力がある土浦城へ移動しますが、藤沢城も土浦城も、ついに佐竹勢に攻撃されます。
この時、小田氏治らの作戦は、果敢にもまた野戦でしたが、これが見事に的中して、勢いに乗って小田城奪還を目指しました。
しかし、さすがに、佐竹の援軍が駆けつけ退却すると、藤沢城も奪われています。

小田氏治にとって、残す城は土浦城(木田余城)だけとなり、1574年に佐竹勢の総攻撃を受けます。
子の小田守治も奮戦しますが、大軍には勝てず、夜を待って、小田氏治はひそかに土浦城を脱出し、土浦城主・菅谷政貞も、やむなく佐竹氏の傘下に加わりました。

このように、この頃の小田城は、佐竹氏のものとなっており、小田城主になった太田三楽斎の子・梶原政景らが、強固な城へと改造したものと考えられています。

所領を失った小田氏治ですが、小田原で可愛がられていた子の小田友治が、北条氏政に何度も頼んだようで、1574年、北条氏房が土浦城に攻め寄せると、佐竹家の家臣となっていた菅谷政貞は、戦わずして城を明け渡したため、小田氏治は土浦城を奪回します。

1577年、北条氏が小田城を攻撃しましたが、この時は失敗します。
しかし、小田氏治は、手子生城、木田余城、土浦城、海老ヶ島城と回復し、小田家の軍師・天羽源鉄には策略にて、佐竹義重に対抗させました。
拠点は、手子生城を使っていたようです。

そして、ついに、1590年1月29日、先祖伝来の小田城奪回のため、小田氏治は小田城近くの樋ノ口に布陣します。
これに対し、梶原景国らが小田城から討って出たため、樋ノ口の戦いとなりました。
大田資正が援軍に駆け付けると、劣勢になり、小田氏治は手子生城に戻っています。

このころ、豊臣秀吉20万の大軍が小田原城を包囲しつつありました。
結果的に、小田氏治は、豊臣家の命を無視して、小田原城に参じなかったのと、豊臣方の佐竹氏と戦ったと言う理由で、すべての所領没収となります。

命は助けられ、小田氏治は結城秀康のもとで300石を与えられました。

現在小田城は発掘調査が行われた後、史跡公園としての公園整備され、とてもきれいになりました。
発掘現場からは陶磁器などの中国や高麗からの輸入品や、鉄砲玉、瓦(かわら)、茶碗などが発見されたと言います。

小田氏が祈祷寺として加護した小田四ケ寺の筆頭・普門寺も筑波山の麓にあります。

さて、常陸・小田城への行き方・アクセスですが、下記の地図ポイント地点が無料駐車場とちょっとした資料館になっています。

発掘調査のあと整備され、中世の小田城の姿を復元した「小田城跡歴史ひろば」が2016年4月29日に開園しています。

多気山城と多気氏の関係は?
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