小田原征伐 (豊臣秀吉の小田原城攻め) 詳細年表

豊臣秀吉小田原征伐(小田原攻め小田原城攻め)における詳しい年表です。

1589年

11月24日 豊臣秀吉は北条氏政に宛てて、宣戦布告の書状を発送。
12月10日 聚楽第にて豊臣秀吉と徳川家康が北条攻めの軍議を開催し、2月1日~3月1日の間に出陣と決定した。
12月13日 豊臣秀吉は北条家に対して朱印状を以って、全国の諸将に陣触れを発した。

1590年

1月04日~05日 北条氏直が陣触れを出す。
1月06日 上野・武蔵の国人に対して15日までに小田原城に参集するよう命じた。 
1月21日 北条氏直が鎌倉建長寺の備蓄米を、小田原城と玉縄城に移動させた。
2月07日 徳川家康が先発隊を小田原に向けて出陣させた為、北条氏直は箱根足柄に塁を築いた。
2月10日 徳川家康が20000の本隊を率いて駿府城を出発。
2月12日 忍城主・成田氏長が小田原城へ向かう。
2月20日、金沢からの前田利家と、越後の上杉景勝海津城で合流。碓氷峠を目指し、依田康国、真田昌幸らが北国軍に加わった。
2月28日 備前の岡山城主・宇喜多秀家が出陣。


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3月01日 豊臣秀吉が小田原へ向けて32000を率いて京都・聚楽第から出陣し、駿府城に3月19日入城した。
3月02日 豊臣秀次と徳川家康が三枚橋城近辺に着陣。
3月03日 三島で北条勢と豊臣勢が小競り合い。
3月06日までに豊臣水軍が伊豆・長浜城を攻略。
3月15日 真田昌幸の先遣隊が、碓氷峠で大道寺政繁と交戦。
3月18日 北国軍が碓氷峠で大道寺政繁を撤退させ、大道寺政繁は松井田城に約1500で籠城。

3月20日 北条氏直の叔父・北条氏忠(佐野氏忠)が箱根の足柄城代として守備に入った。
3月27日 豊臣秀吉が駿河の三枚橋城に到着。
3月27日 弘前城主・津軽為信が家臣18騎を率いて三枚橋城に駆けつけ、豊臣秀吉に謁見。津軽三郡・合浦一円の所領安堵状を与えられた。
3月28日 徳川家康が陣所としていた駿河の長久保城に豊臣秀吉が訪れて軍議。
山中城を視察した上で、山中城攻めは豊臣秀次、韮山城攻めは織田信雄を総大将にすることが決定。豊臣勢は、北国軍で北関東から牽制をかけながら、主力は小田原城への道を阻む山中城、韮山城、足柄城の3城を突破し、同時に水軍で伊豆半島を周って小田原城に迫らせる方針であった。
3月29日 豊臣水軍の長宗我部元親加藤嘉明九鬼嘉隆脇坂安治ら約10000が、北条水軍清水康英梶原景宗らと駿河湾で海戦。その一方で、豊臣秀次・池田輝政木村重茲長谷川秀一堀秀政丹羽長重中村一氏山内一豊田中吉政堀尾吉晴・一柳直末・徳川家康ら約67000が、4000で守る箱根の山中城を総攻撃し、一柳直末が討死するも僅か数時間の戦闘で占領した。北条家の山中城代・松田康長と間宮康俊が討死し、北条氏勝は辛くも小田原城に逃れた。また、徳川勢が鷹之巣城を攻略。そして、織田信雄・蒲生氏郷稲葉貞通筒井定次・生駒親正・蜂須賀家政福島正則・戸田勝隆・細川忠興森忠政・中川秀政・山崎片家・岡本良勝ら44000が韮山城への攻撃を開始した。更に北国軍が松井田城を包囲し、攻撃開始。
3月30日 徳川勢の井伊直政隊が足柄城を攻撃開始するも、山中城陥落の報を受けた足柄城代・北条氏光は小田原城に撤退し、残された600が足柄城を守備していた。

 山中城

4月01日 長宗我部元親が、軍艦・大黒丸に乗船し、北条水軍の伊豆拠点・下田城の清水康英を攻撃する。600で守備していた足柄城が玉砕して陥落。
4月02日 豊臣秀吉が箱根湯本まで進出して陣を置いた。千利休淀殿を呼び寄せただけでなく、諸将にも正室などを呼び寄せるよう達した。足柄城、根府川城などが開城。
熱海からは堀秀政らが進軍。
4月06日 豊臣秀吉は北条家の菩提寺である早雲寺に本陣を置いて、北条氏政・北条氏直ら約60000が籠城する小田原城を包囲開始。(4月4日とする説もあり) ただちに、豊臣秀吉は石垣山城の築城を開始。
4月07日 伊達政宗が母・義姫から黒川城で謀殺されかけ、弟の伊達小次郎を斬殺。
4月10日 北国軍の前田利家・上杉景勝直江兼続・真田昌幸・真田幸村・松平康国ら35000が攻撃していた、大道寺政繁が籠城する松井田城が降伏。前田利家は大道寺政繁を小田原の豊臣秀吉の元に連行したが、この時は大道寺政繁は許されて、北国軍の道案内兼先鋒として北国軍を案内することになった。
4月11日 北条家の庇護を受けていた堺の豪商・山上宗二が千利休を介して豊臣秀吉と面会するも、仕えていた北条幻庵に義理立てした為、怒りを買い、箱根湯本で打首となった。享年46。
4月12日 城主の上田憲定が小田原城にて籠城していた、2300が守る武蔵・松山城の城代・山田直安が北国軍に降伏し開場。(4月16日とも?)
4月13日 北条家と同盟していた房総の里見家が裏切り、三浦半島に上陸開始。
この頃、豊臣秀吉は石垣山城の築城を開始した模様。
4月17日 伊勢原にて白根の戦い。
4月?日 上野・西牧城の多米元忠(多米周防守)が討死し、西牧城が陥落。和田城も落城。倉賀野城(塀和伯耆守)も降伏。
4月19日 浅野長政らが厩橋城を降伏させ開城。
4月20日 前田利家・浅野長政らが、黒川城の伊達政宗に、会津を返上して豊臣秀吉に謁見する為、小田原に来るよう促した。
4月21日 徳川勢より各地に向かった攻略部隊が玉縄城を開城・降伏。玉縄城主・北条氏勝が豊臣勢の捕虜となり、以後、案内役を務めた。
4月23日 下田城が開城。
4月24日 箕輪城は芳賀信濃守・保科正直が守備していたが、北国軍の前に戦わずして降伏し開城。佐野城、箕輪城、河越城も開場。
4月27日 徳川勢が川村秀重が守る江戸城を攻略した。
4月27日 豊臣秀吉は上杉景勝ら北国軍に百姓らの移住と、人身売買の禁止を厳命している。
4月29日までに金山城、館林城、壬生城、鹿沼城も開城。

※写真出典:小田原市観光協会

5月01日 徳川勢が河越城を降伏・開城。
5月05日 豊臣秀吉が房総方面へ出陣していた徳川勢の浅野長政・内藤家長・木村常陸介らが小金城を攻略。小金城主・高城胤則は小田原城に参陣しており、小金城を守る家臣に密かに降伏するよう書状を送っていた。

5月09日 伊達政宗が浅野長政から催促され、小田原に参陣する為、会津・黒川城を出発。越後国・信濃国、甲斐国を経由して小田原に向かった。
5月10日 房総方面の徳川勢が臼井城を攻略。本佐倉城も開城。
5月11日 佐竹勢が榎本城を攻略。
5月18日 房総方面の徳川勢が本佐倉城を攻略。
5月19日 徳川勢の浅野長政・本多忠勝鳥居元忠ら20000が岩槻城を攻撃開始。
5月20日 豊臣秀吉が房総方面へ出陣していた徳川勢の浅野長政・木村常陸介らを武蔵・鉢形城攻略に向かわせた。また、浅野勢が岩槻城を攻撃開始。
5月22日 城主・北条氏房が小田原城に詰めていた岩槻城では城代・伊達房実が2000で籠城し猛攻に耐えていたが、二の丸まで攻略され1000余の犠牲を出して、浅野長政らに降伏。
5月24日 津久井城主・内藤綱秀が近隣に城普請を命じた。
5月27日 堀秀政が小田原の早川口・海蔵寺の陣中で疫病により病没。享年38。後を長男。堀秀治が継いだ。
5月29日 石田三成大谷吉継ら豊臣直属部隊と、佐竹義宣・宇都宮国綱・多賀谷重経・結城晴朝らが館林城を攻撃して館林城は降伏。


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6月01日 韮山城の下丸が陥落。
6月02日 降伏していた金山城・桐生城を前田利家らが接収。
6月05日 伊達政宗は、甲冑の上から白の陣羽織を着て「死に装束」にて箱根湯本に到着。
6月06日 石田三成・大谷吉継・長束正家・佐竹義宣・宇都宮国綱・多賀谷重経・結城晴朝・赤座直保らが忍城を包囲。
6月07日 石田三成らは忍城を水攻めする為、堤の建設を開始。(6月9日とする説もあり) 玉縄城で降伏していた北条氏勝も豊臣勢の案内役として同行していた。この日、忍城の城代・成田泰季が病死し、成田長親が城代となる。
6月08日 北条家の重臣・松田憲秀が、堀秀政らの誘いを受けており、豊臣秀吉に内応した。また、この頃までに上杉勢らは鉢形城へ向かった。
6月09日 伊達政宗は豊臣秀吉に拝謁を許されて臣従。会津が没収されたが、本領は安堵された。
6月11日 石田三成らの忍城総攻撃も、成田長親らが撃退。
6月13日までに韮山城の5つの端城が陥落。
6月14日 前田利家ら30000の北国軍が、大筒を打ち込み、大道寺政繁の案内もあり、3000が守る鉢形城を約1ヶ月がかりで攻略。鉢形城主・北条氏邦は、城兵の助命を条件に剃髪して降伏した。更に北条氏邦は八王子城・忍城・津久井城の助命を嘆願するも願いはかなわず。
6月16日 豊臣秀吉に内通していた松田憲秀が、次男・松田直秀の注進を受けて、北条氏直に捕らえられて自刃。譜代の家老も謀反により、以後、北条家は降伏を考えるようになって行く。
6月16日 石田三成らは忍城の南に堤防を完成させた。しかし、折からの大雨で堤の西端が決壊し自軍に被害が出て、水攻めは失敗に終わる。
6月20日 岩槻城を攻略した徳川勢が、忍城攻めの石田三成に加勢。
6月23日 深夜より北国軍15000が大道寺政繁を先頭に3000が守る八王子城を総攻撃。八条流馬術の名人・中山家範(加治家範)を始め狩野一庵が自決し、近藤綱秀・金子家重・大石照基らが討死するなど、女子供も含めて1000人以上が命を落とす悲劇となった。八王子城主・北条氏照は主力を率いて小田原城に詰めていた。
6月24日 織田信雄らが、4カ月間包囲していた伊豆の韮山城主・北条氏規が、徳川家康の説得を受けて降伏・開城。
6月25日 徳川勢の本多忠勝、平岩親吉、戸田忠次、鳥居元忠、松平康貞ら約12000が、約500が守る津久井城をほとんど戦わずに攻略。津久井城主・内藤綱秀?も小田原城に詰めていた。
6月25日 豊臣秀吉が石垣山に本陣を移した。この日、伊達政宗は小田原から会津・黒川城へと出立している。
6月26日 豊臣秀吉は石垣山一夜城を完成させ、小田原城の面々を驚かせ、黒田官兵衛らが小田原城降伏への交渉を加速。
6月27日 忍城を石田三成らが再び攻撃するも、甲斐姫や成田長親らは撃退。

7月01日 忍城攻撃に加わった真田昌幸らを、成田長親らは撃退。
この報告を受けた豊臣秀吉は水攻めを指示した模様。
7月05日 小田原城主・北条氏直が切腹する代わりに家臣の命を助け欲しいとして降伏。
7月07日 忍城に豊臣秀吉からの上使が到着するも引き続き、忍城は籠城。
7月09日 北条氏政・北条氏照の主戦派が責任を取る形で切腹。 (7月11日とする説もあり)

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 (北条氏政・北条氏照の墓 小田原駅近く)

7月10日 徳川家康が小田原城に入った。
7月11日 忍城に城主・成田氏長が帰還して降伏を説得し、忍城が開城。
7月12日 北条氏直に高野山での謹慎処分を決定。檜原城が落城。
7月13日 豊臣秀吉は小田原城に入り、徳川家康に対し関東7か国のうちに240万石余を与えた。
7月17日 豊臣秀吉は小田原城から出陣し、陸奥へ向かった。この日、松田憲秀が不忠を咎められて切腹。
7月17日 最後まで抵抗していた忍城の成田長親らが、ようやく降伏・開城。
7月19日 大道寺政繁が豊臣秀吉の命により自刃。享年58。
7月26日 豊臣秀吉は宇都宮城に入り、関東以北の諸大名についての仕置大綱を発表した。
8月01日 徳川家康が江戸城に入った。
8月09日 豊臣秀吉は会津・黒川城に入り、豊臣秀次に検地を命じ奥州仕置を発令し、ついに天下統一した。

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更なる正確な年表にご協力願います

 随時修正を加えながら上記は旧暦に統一し掲載しています。
 しかし、資料によっては元々旧暦・新暦が混同している物もあるため、日付が誤っている箇所があるかも知れません。
 皆様にて「ここは違うぞ」と言うご意見がございましたら、是非、お知らせ頂けますと幸いです。
 多くの方のご協力も得ながら、可能な限り正確な詳細年表にして行きたいと存じております。 <(_ _)>

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