小笠原貞慶と小笠原秀政~小笠原家を復興


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小笠原貞慶(おがさわらさだよし)は1546年8月12日、信濃守護・小笠原長時の3男として誕生。小笠原長時の正室は仁科盛能の娘だが、母に当たるかどうかは不詳。

この頃、甲斐の武田信玄は信濃攻略中で、1548年の塩尻峠の戦いで小笠原長時が武田信玄に敗れて没落。
その後、越後の上杉謙信を頼って逃れたのち、同族の京都小笠原氏や、芥川城主・三好長慶を頼って山城国で客将となっていたようだ。

小笠原秀政(おがさわら ひでまさ)は、1569年3月21日、小笠原貞慶の長男として山城・宇治田原で生まれた。
小笠原秀政の母は、中納言・日野輝資の養女(管領細川氏の家臣・高畠長成の娘)。

小笠原長時 – 小笠原長隆 (1581年、越中戸山にて討死)
        小笠原貞次 (武田信玄の養子に入り、後に仏門に入り牟堂と称したが、還俗し右馬助を称するも、信州松山にて没している。)
        小笠原貞慶 – 小笠原秀政

1564年、三好長慶が病死すると、京都の政変を避けて、小笠原長時とその子である小笠原貞慶は、越後の上杉謙信の元に移ったが、小笠原秀政は1569年に誕生しているので、父・小笠原貞慶は一時、京に戻ったと考えられる。

1579年、父・小笠原貞慶は、1578年の上杉謙信の死後に越後を離れて、蘆名盛氏の客分となっていた小笠原長時のもとに平林弥右衛門を遣わして、家督を相続したとされる。
ただし、小笠原長時は、1581年には織田信長に迎えられ、京都御馬揃えにも日野輝資らと共に参加している。

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1582年、織田信長武田勝頼を破ると、父・小笠原貞慶は旧領の一部であった信濃筑摩郡を与えられた。
しかし、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、父・小笠原貞慶は旧領の地侍に迎えられ、徳川家康の支援を受けて、7月17日に深志城(松本城)を奪還することに成功。
それもつかの間、8月に、木曾義昌徳川家康と手を結んで、松本に攻め込んで来たため、小笠原貞慶は徳川家康を見限って、深志城から果敢に出撃して小笠原孫次郎・犬甘政信ら重臣を失うも木曾義昌勢を破り、松本の地侍や寺社などに所領安堵状や宛行状を多発して自立傾向を強めた。

1583年、小笠原貞慶は地侍の赤沢氏、塔原氏などを殺害した為、三村氏や西牧氏らは粛清を恐れて逃亡。
これらは武田信玄が侵攻した際に小笠原家を裏切った者共であり、小笠原貞慶が復讐したとも言われる。
その後、筑北地方で上杉景勝と戦ったが大敗。

上杉景勝の動向を見た徳川家康は、小笠原貞慶を味方につけて所領安堵し、小笠原貞慶は長男・小笠原秀政を徳川家康のもとに人質として出し、石川数正が預かった。この頃には元服しており、小笠原貞政を名乗っていたようだ。

1585年11月、石川数正が徳川家を出奔。その際に、人質である小笠原貞政も連れられて、豊臣秀吉のもとに参じた為、父・小笠原貞慶は豊臣秀吉に仕えざるを得なくなり、徳川勢の高遠城を攻めるも失敗している。
そして、豊臣秀吉より偏諱を与えられ、この時、小笠原貞政から小笠原秀政と改名したが、父・小笠原貞慶は、名族小笠原家の血筋を鼻にかけて、豊臣秀吉の出自を貶めるような発言をしたため、家臣らは再度の浪人を恐れて、小笠原秀政を名代として豊臣秀吉に拝謁させたと伝わる。

このような経緯から、以後は事実上、小笠原秀政が小笠原家の当主扱いとなり、1587年3月に豊臣秀吉の仲介で、徳川家康の元に帰参し、1588年12月に小笠原秀政(20歳)は正式に家督を継いだ。

1589年1月、徳川家康より正式に安曇郡・筑摩郡の松本領を安堵され、8月には徳川家康の嫡子・松平信康の娘・登久姫が、小笠原秀政の正室となり、徳川家での地位を確立した。

1590年、小田原攻めでは、北国軍の前田利家勢に加わって、父・小笠原貞慶と小笠原秀政は軍功を挙げ、豊臣秀吉から讃岐半国を与えらる。
しかし、父・小笠原貞慶が、かつて九州征伐での失敗で豊臣秀吉の怒りに触れ追放されていた、尾藤知宣を保護したため、豊臣秀吉の怒りを買い改易された。
その為、父・小笠原貞慶と小笠原秀政は再び徳川家康に仕えて、徳川家康から下総古河に30000石を与えられている。

1592年、小笠原秀政の長女・万姫(氏姫)が誕生。のち徳川家康の養女となり伏見城に移り、1600年、9歳のときに阿波・徳島藩主・蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の長男)に嫁いだ。

1594年には、小笠原秀政の嫡男・小笠原忠脩が誕生。

1595年3月20日、小笠原秀政は従五位下上野介に任じられ、豊臣姓を与えられたが、その2ヶ月後の5月10日に父・小笠原貞慶が死去。享年50。茨城県古河市の隆岩寺に供養塔がある。

小笠原秀政は、1600年の関ヶ原の戦いで宇都宮城守備の功を挙げ、1601年に信濃・飯田城50000石に加増移封となった。

1607年、小笠原秀政は出家して家督を長男・小笠原忠脩に譲った。

1613年には、父祖の地である信濃・松本80000石に加増移封。

1614年の大坂冬の陣では、小笠原秀政の嫡男・小笠原忠脩が小笠原勢を率いて出陣したが、軍費に窮して困り果てたと言われている。

1615年の大坂夏の陣には、貴重な実戦経験のある武将として小笠原秀政も参陣し、本多忠朝を救援した。
この時、嫡男・小笠原忠脩は松本城の守備を任じられていたが、江戸幕府に無断で大阪に出陣した。一つ間違えれば、徳川家康の曾孫といえども許される行為ではなかったが、徳川家康は処罰も恐れずに出陣してきた、小笠原忠脩の勇気と決断力を大いに評価して従軍を許したという。
しかし、天王寺口の戦いで猛攻を受けて、嫡男・小笠原忠脩は討死(享年22)し、小笠原秀政も瀕死の重傷を負った。
この傷により、間もなく小笠原秀政は死去したとされる。享年47。

小笠原家は次男・小笠原忠真が継いだが、このときの小笠原秀政の死が、後世に小笠原家が改易の危機にあった際、常に「父祖の勲功」として救われる一因を成したと言う。
なお、小笠原忠真は、亡くなった兄・小笠原忠脩の未亡人・亀姫を正室とした。
後に播磨明石(明石城)10万石を経て、豊前小倉(小倉城)15万石に移封。

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