お市の方 (お市)~ 浅井長政に嫁いだ戦国一の美女 数奇な生涯と生存説も解説


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 お市の方は、1547年?に織田信秀の娘として誕生した。呼称としては、市、お市の方、市姫、小谷の方(おだにのかた)。
 母は側室または正室(継室)の土田御前で不明だが、織田家での待遇が姉妹の中では比較的良いので土田御前の可能性がある。

 織田信秀には24人の子供がおり、兄に織田信広、織田信長織田信行織田信包、織田信興・織田長益、弟に織田長利、姉・お犬の方などがいる。

 お市の方は戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられている。

 1567年頃(21歳頃)、兄・織田信長の「娘分」として近江の小谷城主・浅井長政の継室として嫁ぎ、織田家と浅井家は同盟を結んだ。
 お市の年齢が21歳である為、当時としては晩婚にすぎる為、2度目の結婚など何らかの事情があった可能性もある。

 浅井長政の父・浅井久政や浅井家の家臣らは、古くからの朝倉家との同盟を重視していた為、この結婚には反対だったと言う。
 しかし、お市の方と浅井長政との間は睦まじく、大変仲が良かったとされ、1569年には長女・茶々(淀殿)、1570年にはお初、1573年にはお江の浅井3姉妹も設けた。

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 1570年、兄・織田信長は浅井長政に朝倉は攻めないと約束していたが、上洛命令に従わないとして越前国の朝倉義景攻めを敢行。
 浅井長政は織田信長が裏切ったして、織田勢の背後をつき、同盟は破たんした。
 この際、お市は、手紙では怪しまれるので、小豆入りの袋の両端をしばったものを陣中見舞いと称して織田信長に送り「袋の中のネズミ」として、浅井長政の裏切りを伝えたとされるが、この話は後世の創作だと考えられる。

 浅井長政の裏切りに怒った織田信長は帰国するとすぐさま兵を立て直し、近江の小谷城に迫った。
 朝倉義景の援軍を得た浅井長政は、姉川にて織田信長・徳川家康勢を迎え撃ったが大敗し、大きく戦力を落とした。(姉川の戦い)

 1573年、越前の朝倉義景を滅ぼした織田信長は、その足で再び小谷城攻めを行い包囲した。
 浅井長政・久政親子は自害し、お市の方は3人の娘(茶々、お初、お江)と共に藤掛永勝らによって救出され織田家に引き取られたが、浅井長政の長男・万福丸は捕われて羽柴秀吉(豊臣秀吉)によって殺害され、次男・万寿丸は出家させられた。

 織田家に戻ったお市の方は、安濃津城または清洲城にて兄・織田信包の保護を受けて、娘の3姉妹と共に9年余りを平穏に過ごしたようだ。
 織田信長は、お市の方や三姉妹のことを常に気にかけ、贅沢をさせていたと言われている。
 織田信包も「浅井家の血が絶えるのは忍びない」と、お市を手厚く保護し、3姉妹を養育したと言う。

 1582年、明智光秀による本能寺の変で、織田信長が横死すると、清洲会議を経て羽柴秀吉(豊臣秀吉)が織田家の実力者となった為、お市の方は、織田家筆頭家老だった柴田勝家と再婚し、北ノ庄城に3姉妹と共に入った。
 柴田勝家は25歳も年上の再婚相手であった。
 これまで織田信孝の仲介とされてきたが、最近の研究では羽柴秀吉が仲介したと伺わせる書状から、羽柴秀吉が仲介したとする説が有力。
 同年1582年、柴田勝家の勧めにより、お市の方は京都・妙心寺で、織田信長の百箇日法要を営んでいる。

 1583年、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が、柴田勝家を攻めると、柴田家勢は賤ヶ岳の戦いで敗れて、北ノ庄城に戻ったが、羽柴秀吉の軍勢が迫り、柴田勝家とお市の方は越前北ノ庄城内で自害し運命を共にした。享年37。
 辞世の句は「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」

 墓所は西光寺(福井県福井市)。
 菩提寺は自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)。
 戒名は自性院微妙浄法大姉、東禅院殿直伝貞正大姉(自性院照月宗貞とも伝わる)。

 お市の方は羽柴秀吉に書状を送るなどして、茶々(17歳)、お初(14歳)、お江(12歳)の3人の娘は「浅井と織田の血を絶やさぬように」と言い聞かせられて城から脱出し、羽柴秀吉が保護した。
 長女・茶々は豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼の生母となるが大坂の陣で自害。
 二女・お初は、京極高次に嫁いだ。大阪の陣では豊臣側の交渉役として奔走し、のち常高院
 三女・お江(小督)は、一度、佐治一成の正室となったが、豊臣秀吉の命で豊臣秀勝の正室となり、豊臣秀勝の死後は、徳川幕府2代将軍・徳川秀忠の正室となり、お江与と呼ばれた。
3代将軍・徳川家光を産んでいる。のち崇源院。

お市の方 生存説

 お市の方の生存説では下記の通りになっている。
 北ノ庄城の落城前夜に、お市の方は城の裏手を流れる川から脱出し、勝久寺に落ち延びて、越前一向一揆鎮圧の際に焼け落ちた寺の跡地に残っていた離れ御殿に潜伏した。
 しかし、そこを焼いて逃げて、織田信長が健在の時には財政面を支えた三国湊の森田家に匿われたと言う。
 その後、近江の国友村の浅井治郎左衛門(浅井家の残党で、森田家にも元浅井家の家臣がいた)の案内で、伊賀の下友田に移り住み移り、1599年に没したという。
 浅井治郎左衛門は、苗字を日比に改め、更に1624年には稲増と改名し、お市の方の喉仏を保管している。

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コメント

  1. 研究会登録済みです。
    三女江姫は、織田長益(有楽斎)が城主をしていた、尾張国知多半島大野城に暮らしていたが清洲会議後三重県の
    安濃津城へ移封されている。移封前大野城が山城で不便のため、大野港近くの平地に新しい城を築城途中で秀吉の
    命令が下ったため、完成していないが、徳川幕府の命令で、現在も当時のまま保存されている。
    この時期織田信孝も近くの美浜町野間 安養院で自害している。
    NHK大河ドラマ江姫の放映されていたため、小生その影響を受け大野城・大草城・安濃津城をたずねたが、安濃津城
    へ出発する日が3月11日東北大震災の当日で、現地で津波警報を(三重県尾鷲港近いため)直接聞き・・・今も
    鮮明に記憶しています。

  1. 2016年 1月 04日

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