岡豊城と長宗我部国親の栄光~秦氏や明智との関係も


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四国を制覇した長宗我部氏の本城だったのが土佐の岡豊城です。

その岡豊城を写真でご紹介しながら、長宗我部氏の出自と長宗我部国親に迫ってみたいと存じます。

まず、岡豊城の読み方ですが「おこうじょう」と言います。
わかりにくいですね。
ずっと、おかとよだと思っていました。

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そんな岡豊城を築いたのが長宗我部氏と言う事になりますが、築城年代は不明です。

長宗我部氏(ちょうそかべし)の出自は、古代氏族・秦氏(はたうじ)とする説が一般的です。

この秦氏は、もともと中国秦王朝の始皇帝の末裔で、朝鮮半島の百済に逃れていた弓月君(ゆづきのきみ)が、民を引き連れて日本に渡来しました。
日本書紀にも記載されているような古い時代の話でして、西暦283年のことです。
もちろん真偽性は不明瞭な点も多いですが、このとき中国・朝鮮の技術も日本にもたらし、渡来系氏族「秦氏」(はたうじ)と称し、日本各地に散らばりました。
例えば、その名残として神奈川県には「秦野市」と言う地名もありますし、子孫の一部は波多野氏(はたのし)とも称した訳です。

他にも秦氏の末裔としては、惟宗氏を筆頭に、東儀家、小畑家、瀬尾家、土山家、三上家、調子家、藤木家、松室家、平田家、石川家、大石家、松尾家、東家、南家、西大路家、大西家、羽倉家、荷田家、川勝氏、大蔵氏、松下氏などがあります。
このうち、惟宗氏(これむねうじ)の子孫としては、島津氏、宗氏、市来氏、川原氏、河俣氏、神保氏、執印氏、安芸氏、そして長宗我部氏と言う事なのです。

長宗我部元親を祀っている土佐・長浜城下にある神社もその名は「秦神社」と言います。

時代は平安時代末期になって武士が力を付けてくると、信濃・秦氏の一族である秦能俊が、土佐国長岡郡宗部郷(宗我部郷)の地頭として赴任し、長宗我部能俊(ちょうそかべ-よしとし)と称したのが、長宗我部家の始まりとなります。
もともとは「宗我部」と称しましたが、香美郡宗我部郷の豪族も宗我部氏と称したため、お互いに区別する為、郡名の頭文字を取り「長宗我部」「香宗我部」と名乗るようになったと伝わります。

このへんからは岡豊城の風景も交えながら掲載いたします。
下記は岡豊城の遊歩道です。

南北朝時代のとき、11代・長宗我部信能(ちょうそかべ-のぶよし)は、北朝に味方して活躍したため、所領が増え基礎を築きます。

応仁の乱となると、関白だった公卿・一条教房が、領地になっていた土佐国幡多荘に下向(避難)し、長宗我部氏ら国人は暖かく迎えます。
その次男・一条房家(いちじょう-ふさいえ)がそのまま土着して、土佐・中村に「小京都」とも呼ばれる街並みを築きます。
このように一条家は名門であったため、土佐豪族の盟主的な立場になっていきました。
下記は岡豊城の竪堀跡です。

そのころの長曾我部氏は19代・長宗我部兼序(ちょうそかべ-かねつぐ)でしたが、室町幕府管領で土佐守護の細川政元や一条房家の後ろ盾を受けており、安芸氏も代々、細川家から偏諱をもらっています。
この幕府の権力を掌握していた細川政元が、1507年に屋敷の湯屋にて暗殺されてしまいます。
すると、本山養明など山田氏、大平氏、吉良氏らの連合軍3000が、長宗我部氏の居城・岡豊城を攻撃します。
多勢に無勢で岡豊城は包囲され、家臣の離反も出たため、長宗我部兼序は中村御所の一条房家を頼って逃れました。

このように、長宗我部家も一時は居城を失いましたが、一条房家が再興を手助けし、1511年に本山氏・山田氏と和睦します。
下記は岡豊城の伝厩跡曲輪です。

こうして、岡豊城に復帰し、永正15年(1518年)頃に子の長宗我部国親に家督を譲ったと考えられています。
もちろん、諸説あります。

長宗我部国親

長宗我部国親(ちょうそかべ-くにちか)は、1504年生まれですので、家督を継承したのはまだ15歳の頃と推測できます。
土佐守護を兼ねた細川高国から偏諱を受けて元服し、長宗我部国親と称しました。
正室は祥鳳と言いますが、出自などは不明です。
下記は岡豊城より高知方面を望む展望です。

そして、重臣・吉田周孝(よしだ-ちかたか)を登用し、内政や軍備の充実など、長宗我部家の復権に努めました。
土佐七雄の一人にも入っている長宗我部氏ですが、本山氏・吉良氏・安芸氏などが5000貫に対して、長宗我部氏は一番下の3000貫となっています。
すなわち、勢力的には、土佐の有力豪族の中でも高くはなかったのですが、1544年には、かつての仇敵である本山茂宗の嫡男・本山茂辰に娘(本山夫人)を嫁がせると、以後は拡大路線に転じます。

1547年(天文16年)には、天竺氏の居城である大津城を攻略し、大津の南にある介良の横山氏を屈服させます。
さらに勇猛な武将で知られた下田駿河守を討って下田城を制圧。
続いて細川定輔(十市細川氏)を屈服させ、細川定輔の次男・池頼定の子である池頼和に娘を嫁がせて臣従させました。

このように破竹の勢いで長岡郡南部を制圧したた、近隣の布師田や一宮の領主は、恐れをなして長宗我部家に降伏し、土佐郡南西部も手に入れます。
また、一領具足を考案・導入し、富国強兵を推し進め、1549年(天文18年)には山田氏を滅ぼしています。

1555年(天文24年)、本山茂宗が死去すると、娘婿の本山茂辰への圧力を強めて兵を挙げます。
1556年(弘治2年)には本山氏家臣の秦泉寺氏を服属させ、大高坂氏や国沢氏も討ち果たしました。

さら、1558年、三男・親泰を香宗我部親秀の養子として従属化。

1560年(永禄3年)には、本山茂辰への攻撃を本格化させ、長浜城の戦いなどになりましたが、長浜城の攻略は苦慮しました。
そのため、腐っていた長浜城の城門を修復すると聞くと、土佐の名工・福留右馬丞(ふくとめうまのじょう)を味方につけて、長宗我部国親は、門を壊れやすくするように治させたとされます。
こうして、種崎城から長浜城に夜襲を掛けると、簡単に城門を突破したため、長浜城の城兵はすぐさま降伏したとあります。

そして、長宗我部勢1000は戸ノ本の戦いにて、長浜城奪還を目指した2500の本山茂辰を撃破します。
その後、桂浜の背後にある浦戸城を包囲しますが、この時、長宗我部国親は病に倒れたため、岡豊城に戻ります。
しかし、回復しなかったようで、1560年6月15日に死去しました。享年57。

家督は、嫡男・長宗我部元親が継ぎますが、土佐国人の従属化を進め、高知平野の制圧も成し遂げるのです。

長宗我部家と本能寺の変

長宗我部国親の正室は祥鳳と前述させて頂きましたが、この祥鳳は、1522年に一条房家から縁談を持ちかけられました。
美濃の守護代・斎藤利長(斎藤利永)の娘「祥鳳玄陽」ともされます。
斎藤利永(斎藤利長)は、武勇ある武将で拠点を美濃・加納城として、美濃の守護代となりました。

不確定要素はありますが、この斎藤利永(斎藤利長)の孫?が、のち明智光秀の重臣となる斎藤利三を出したと考えられます。

そして、家督を継いだ長宗我部元親の正室は、1563年に嫁いだ石谷頼辰の妹・元親夫人と言う事になりますが、この石谷頼辰は斎藤利三の兄と言うになります。
この結婚は、長宗我部元親自らの意向だったともされます。
石谷頼辰(いしがい-よりとき)は、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える奉公衆で、足利将軍家との繋がりがありましたが、織田信長が台頭すると石谷頼辰は明智光秀の家臣となっており、長宗我部家への使者も務めています。

このツテで長宗我部元親は、明智光秀の仲介にて織田信長に接近し、四国は切り取り次第(四国は自由に領土拡大OK)を認めさせています。
こうして、息子・長宗我部信親の烏帽子親も、織田信長が務めた訳です。

しかし、織田信長は武田勝頼を滅ぼすと、心変わりして、長宗我部元親に土佐と阿波南半分以外は放棄するようにと、無理な要求をしてきました。
もちろん、長宗我部元親は断った訳でして、こうして、織田信長の四国攻めが開始されようとします。

このように、長宗我部家と、明智光秀の重臣・斎藤利三の関係は深かったようです。
明智光秀にしてみれば、仲介した約束事を織田信長が反故にするなど、面目が潰れていた訳ですので、織田信長が四国攻めを行う直前に、本能寺の変に至った理由のひとつでもあることは、可能性は高いなと感じる次第です。
※もちろん諸説あります。

本能寺の変が起き、一番助かったのは、長宗我部家でした。
本能寺の変のあと、石谷頼辰は妹(元親夫人)の嫁ぎ先である長宗我部家を頼って家臣に列しています。
長宗我部家の恩人のようなものですので、もちろん厚遇しただけでなく、長宗我部元親の嫡男・長宗我部信親の正室として石谷頼辰の娘・石谷夫人を迎えました。

なお、石谷頼辰(石谷兵部少輔)は娘の夫・長宗我部信親と共に、1587年、戸次川の戦いにて討死しています。

そろそろ、話を岡豊城に戻させて頂きます。

岡豊城

岡豊城は、岡豊山(標高97m)にある連郭式山城で、比高は80mあります。
下記は本丸跡ですが、なんでも「櫓」を建てるようで、基礎工事中でした。

長宗我部元親が1588年に、大高坂山城(高知城)に本拠を移すまで、約400年間、本拠地となっていました。

現在の岡豊城は、写真でもお分かりのとおり、とても散策しやすく、道も整備されていますので、山城ですがトレッキングポールなどの装備は不要で、スニーカーでもOKです。

下記は二の段(二の丸)からの眺めです。

岡豊城の見学所要時間は、資料館からで約30分でした。

歴史民族資料館前には、長宗我部元親の銅像が2015年5月3日に設置されました。

県立民俗資料館のところに駐車場50台があり、岡豊城跡は公園として整備されています。

駐車場の場所ですが、下記の地図ポイント地点となります。
行き方・アクセスでご参考頂ければ幸いです。

以上、高知の岡豊城でした。

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