音羽半六と伊賀の十二家評定衆(伊賀十二人衆)とは?

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音羽半六

音羽半六とは

音羽半六(おとわ-はんろく)と言う伊賀忍者の頭領が、和田竜さんによる歴史小説「忍びの国」、2017年映画「忍びの国」にも登場します。
伊賀十二家評定衆(伊賀十二人衆)のひとりと言う設定ですが、音羽半六はどのような人物だったのでしょうか?

三重県伊賀市音羽に「音羽氏城跡」があります。
標高332mの山城で、現在でも崩れた石垣や土塁などが見受けられるそうです。

文献によりますと伊乱記での城主は地頭・音羽半兵衛と城戸氏。
伊賀旧記では、音羽半六の居城とあります。


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天正伊賀の乱の頃に音羽を本拠地として土豪は、音羽半兵衛、音羽半蔵、音羽半六、城戸弥左衛門の名が見受けられます。

明治期には城戸氏の城と伝わっており、音羽氏城の正確な城主は不明ですが、音羽半六の痕跡が認められます。

伊乱記における「伊賀十二家評定」は下記のとおりです。

長田・百田籐兵衛(百地三太夫?)
朝屋・福喜多将監
木興・町井左馬充貞信
河合・田屋掃部介
音羽・音羽半六
島ヶ原・富岡忠兵衛
依那具・小泉左京
比土・中林助左衛門(中村助左衛門)
布生・布生大善
柏原・滝野十郎吉政
下阿波・植田豊前光信
西之沢・家喜下総

この評定衆の傘下には100名以上の地侍がいると言う事になりますので、上記に入っている音羽半六は、かなりの有力者であったことがうかがい知れます。

十二家評定衆(伊賀十二人衆)

鎌倉時代の中頃になると、伊賀の荘園管理人であった地頭などは、荘園を私物化します。
そして、、武装集団を形成して近隣の豪族と争うようになり、戦国時代には約600もの城・館・砦と、120近い豪族・土豪が群雄割拠していました。
しかし、三好氏など強大な勢力が度々攻めてくるようになり、伊賀の豪族らは自らの所領を守るために「連合」を結成して組織的に対抗するようになりました。
この連合は12人の有力国人から構成した評定衆により、意思決定が行われたため、十二家評定衆(伊賀十二人衆)と呼ばれるのです。
そして、この十二家評定衆(伊賀十二人衆)のもと、他の中小豪族も従うといった、共和制のような体制になっていました。
しかし、織田信長によって、観音寺城の戦いで筒井順慶が降伏するなど、伊賀の周辺は織田家の勢力が伸びてきたため、十二人衆でもも織田家に臣従するか、徹底抗戦するかで、意見が割れます。
筆頭と目される百田藤兵衛は、平楽寺(現在の万福寺)に12人衆らを集めて評定を開きますが、この時、抗戦派・臣従派は下記のように分かれたとあります。

徹底抗戦派

植田光次
家城右近
音羽半六

織田家臣従派

町井清兵衛
滝野吉政
柘植清広(12人衆ではない)

中立派

百田藤兵衛(百地三太夫?)
福喜多将監
富岡忠兵衛(どちらかと言うと徹底抗戦派)
田屋掃部
布生大膳
小泉左京
中林助左衛門

しかし、このように音羽半六と言う武将の名前が見受けられるだけで、生没年や出自など詳しいことは全くわかりません。
かなり謎の人物と言う事になってしまいますが、わかっていることだけ精一杯挙げてみました。

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