謎の謎の小山有高・小山経隆 鎌倉武士

戦国武将列伝Ω

現在の相模原市と町田市にまたがる小山に館を構えたと考えられる横山党?「小山氏」については不確定要素が多く、良くわかっていません。このページではそんな小山氏の諸説を検証します。
栃木の小山氏とは全く別の系統の話ですので、念のため記載致します。

小山有高

1190年10月に源義経が上洛した際の御家人に相模小山太郎と言う名があります。
その人物が小山有高(小山太郎有高)とされ、小山城に居住したとする説があります。
この小山有高の名は、横山党の系図には見られません。ただし、横山党一族に名が見られる小山経隆の子・小山有隆と称されており、漢字が異なるだけで呼び名同一であることから、小山有高=小山有隆(菅生有隆)と考えるのが一般的です。
そうなると小山有隆(菅生有隆)の父は小山経隆であり、実際には横山党出身の父である小山経隆が小山姓であることから、父の小山経隆が最初に小山を有したと言えると私は考えます。


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ただし、気になることが1点あります。
1185年に源氏が再興支援した威光寺の寺領を小山有高が不正に占拠したとして、返納するようにとの源頼朝の命令が見られます。
結果的に小山有高は返上したようですが、威光寺は現在の妙楽寺で川崎市多摩区長尾にあります。
町田市小山から、多摩区長尾の間には、小野地、小山田と言った秩父党小山田氏を中心とした勢力があり、小山有高が、町田の小山に住んだとしたら、小山田氏勢力を飛び越えて多摩区長尾の威光寺領を飛び地の様に、なぜそんな遠隔地を占拠したのか理由が良くわかりません。
ただし、小山有隆は菅生有隆とも呼ばれていることから、この威光寺の寺領問題が発生した頃には、小山ではなく菅生を支配していたと考えるのが適切なような気が致します。
菅生と長尾はまさに隣村です。よって、理由は分かりませんが、小山から菅生に移り住んだと考えられると存じます。

小山田荘(小山田城)には小山田有重が横山党出身の母の旧領地を相続して、1171年に入ったと言いますので、小山田有重が町田市や多摩市を支配していたほぼ同時期に、小山有高=小山有隆(菅生有隆)は存在したと考えられます。
そうなると今度は、なぜ小山田氏の領地とも言える菅生を小山有隆(菅生有隆)が領する事ができたのか疑問が残ります。
小山田氏の子は、小野路城枡形城、程谷(保土ヶ谷)などを領しています。
要するに、町田市、多摩市、稲毛荘(稲城市)から川崎市一帯、横浜市北部一帯は小山田氏の領地と言え、その領地内と考えられる菅生や小山を小山氏が住んでいた事になります。
単に、小山田氏と親戚だったから住んでいたとも考えられますが、小山の地は、小山田城のすぐ隣と、隣接した場所でもあります。
もしかしたら、小山有高(小山太郎有高)=小山有隆(菅生有隆)は、小山田有重そのものとも考えてしまいますが、ひょっとしたら、菅生を知行していた小山田家の娘と結婚して、婿養子に入ったとも推測できます。

1195年の南都着御の際の供養の列に相州小山四郎の名があります。

和田合戦の戦死者に小山有隆(菅生有隆)、小山次郎、小山四郎の名があります。
よって小山氏は滅亡したと言われていますが、小山田有高は和田合戦に出陣したと言う形跡が見られません。

横山孝兼
(横山隆兼)
(小野孝兼)
小山経隆
(小山次郎経隆)
小山氏の祖?


小山有隆
(菅生有隆)
小山有高と同一人物か?

娘(江戸重継に嫁ぐ)
秩父党江戸氏とも親戚に
娘・荻野季重に嫁ぐ

相模国海老名氏の一族・本間氏の系図では、横山孝兼の2男・小山経隆(小山次郎経隆)の娘が荻野季重(荻野五郎季重)の妻になったとあります。
他にも小山経隆には娘があり、1人は秩父党・江戸重継に嫁ぎ、嫡男・江戸忠重を生んでいます。
また、小山経隆には他にも娘がおり、渋谷氏などにも嫁いでいます。
更には、小山経隆の娘が、信濃国小県郡小泉荘の武将・泉公衡に嫁いでおり、鎌倉時代に泉親衡の乱を起こす、泉親衡を1178年頃に産んだようです。
息子は小山有隆(菅生有隆)、小倉経久、小倉有経などの名も出てきます。
上記のように、小山経隆に関しては、横山党の系図にハッキリと出ており、その存在が明らかです。


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一般的には小山経隆の子と考えられる小山有高(小山有隆=菅生有隆)が小山に最初に住んだとされていますが、横山党の党首・横山孝兼の実際の2男は藍原孝遠であり、4男の小山経隆は、兄弟に相原氏がおり、小山経隆は最初に「小山姓」で呼ばれていることから、恐らくは相原の隣の地である小山に小山経隆が最初に住んだと私は考えております。

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コメント

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  1. 小山 拓

    父に役所(どこかは聞きそびれました)から送られてきた資料(家譜.小山氏について)を見て、興味があり調べています。
    系譜は享保10年(徳川8代目の時代)までしか遡れないため、信憑性に乏しいのですが、小山氏についてを読むと

    小山氏
    秀郷流藤原姓(これは違うと思う)。小縣郡の名族にて小山城主(どこの小山城かわからない)。其さい?甲斐八代郡に住し後武田氏に仕ふ。先を小山田氏、備中守小山田兵部東堀に住す。その子萬歳に長じ諸邑遍歴、後赤沼村に住し?農、その子孫同村に発展す。

    とあります。
    親類は長野の諏訪、茅野、山梨甲府周辺におり、曾祖父は地主、庄屋だったと聞いております。
    勝手に小山を名乗ったのでなければ、町田の小山、小山田より、甲斐小山田の流れを組んでると思われます。
    だとすれば、自分の高祖を考えるに、小山田の高祖である秩父平氏なのか、このページに記されているように横山、小野なのか、よくわからず混乱し、また、ロマンを感じている所です(笑)。
    なにかその辺の事をご存知でしたら是非教えて頂きたく、厚かましいのですがご連絡させて頂きました。
    よろしくお願いします。

  2. 小山さま、お問合せを賜りまして御礼申し上げます。
    出張しており、ご返信が遅くなりましたことお詫び申し上げます。

    東京都町田市小山は、小山(おやま)さん発祥地の、ひとつ、にもなっているのではと推測致します。
    しかし、町田の小山城(小山館)主とされる、鎌倉武士の小山氏に関しては、記事のタイトルにもありますとおり、謎が多いです。
    ただし、この付近は横山党の支配下でして、和田合戦にも小山氏が出陣していると言う事からも一族だったことが伺え、可能性としては、横山党から出た庶流と見るのが妥当かと存じます。
    小山田氏は、あまり関係ないと推測しています。
    確証はありませんが、小山田を間違えて、小山と、1文字少なく、昔の文献が間違えて残した部分があり、そもそもは、小山田氏の話が混同を産んでいるのかな?と推測しています。
    よくある事です。
    ちなみに、相原さんと言う姓名の発祥も、横山党の一族となります。

    小県の小山城は、恐らくは、長野県上田市武石沖字小山にある山城のことだと思います。
    それを考慮すると、この城を託されたことで、小山氏と呼ばれるようになったのかも知れません。

    小山田備中が、戦国時代に武田家に仕えていた武将のことであれば、武田二十四将の小山田虎満や小山田昌成と言う勇将だと思われます。
    最後まで、武田家を裏切らなかった忠臣です。
    となりますと、武蔵の小山田氏とは別系統の石田小山田氏系であると言う事になります。
    内山城主も務めていますので、小県に縁があっても、おかしくないですね。
    ただし、小山田虎満は、もともと上原氏を称していますので、石田・小山田氏の養子となったのか?、名跡を継いだと推測されます。

    この程度しか、ご回答できずに、心苦しいですが、少しでもご参考になれば幸いです。