小山田高家の解説 浄瑠璃姫伝説(長池伝説)

1331年、新田義貞の挙兵に小山田高家(小山田小太郎高家)なる人物が参加し、小山田郷を取り返した。
小山田高家(おやまだ-たかいえ)は、武蔵・小山田城の初代・小山田有重から6代目だとされている。
多摩ニュータウン、別所の南にある長池公園の長池は、小山田高家(1336年湊川の戦いで戦死)の妻、浄瑠璃姫が入水自殺した所とされている。

聖武天皇(在位:724年~749年)の時代に、相模国・大磯(神奈川県)の海面に三日三晩光り続ける不思議な場所があった。
漁師が光る物を引き上げてみると、朽木の薬師如来像だった。
のちの世に相模・平塚城主「岡崎四郎」がこれを譲り受け、子が授かるように薬師如来を拝み続けた結果、授かったのが娘の「浄瑠璃姫」だ。
その後、浄瑠璃姫は、武蔵国の小山田太郎高家の側室となった。
その時、薬師如来像を父から譲り受けて小山田家に嫁いでいた。


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1336年に小山田太郎高家は、足利尊氏勢から大将・新田義貞を救うため湊川の戦いで、新田義貞の替玉となり討死。
その後、小山田領(町田市)は北条得宗家勢に攻められたようで、小山田氏の臣下は敗走した。

長池の浄瑠璃姫の碑

浄瑠璃姫は薬師如来像を背負って、侍女13人と共に逃げたものの、逃げきれないと小山田高家の後を追って長池に身を投げたと言う。
それから25年が過ぎた1361年、蓮生寺の住職・教山が長池のほとりを歩いていると、池の中に光るものを見つけた。やがて汚れた木片が現れ、木片は薬師如来像であった為、住職は像を持ち帰り、堂を建てて供養した。
その薬師如来は現在でも蓮生寺に祭られている。蓮生寺は1182年創建と、八王子市に現存する最古の寺である。

しかし、これは歌舞伎(浄瑠璃)である「小山田太郎物狂」からの伝説になってしまったのかと推測する

なお、もっともらしい伝承があるので、ご紹介しておく。

小山田義重の妻である、宇都宮友綱の娘がこの長池に身を投げたとされる。
小山田義重が妾の戸井田庄司の娘を寵愛したことから、長池にて入水自殺したとされている。
その宇都宮友綱の娘を祀ったのが、小山田神社だとする説もある。

この小山田義重なる武将は調べるのに苦労したが、かなり判明したので下記にまとめてある。

小山田義重に関してはこちら

長池公園

上記写真は、戦国時代から変わらぬ谷戸の風景が残されている長池公園の名池へ向かう散策路。
長池があった場所は、多摩ニュータウンの開発の手が伸びたが、現在長池公園として整備されている。小山田城があったとされる場所から西北西に約2.2kmの場所と程近い。

小山田高家の足跡としては、忠臣な小山田高家の生まれた村として、忠と生まれの字を取り、忠生村の名がつき、現在でも町田市忠生の地名として残っている。

長池公園へのアクセス・行き方は、下記の地図ポイント地点に69台の無料駐車場があるが、土日祝の昼間は混雑気味か・・。
3月~9月は開錠時間が朝8時30分からで施錠が18時30分。10月~2月は施錠が1時間早くなる。

なお、現在の長池公園にある大きな池が伝承の池ではなく、奥まったところにある小さ目の池が、浄瑠璃姫伝承の長池(ページトップ写真)となっている。

小山田城を太田道灌が攻め落とす

室町時代になると、相模国も扇谷上杉氏が支配していたように、小山田あたりも扇谷上杉氏が支配している。
小山田城もある程度改修されていたようだ。
そんな折り長尾景春の乱が起こると、武蔵や相模の武士は長尾景春に協力する。
太田道灌と長尾景春の争いとなり、1477年、長尾勢となった小沢城(神奈川県愛川町)を太田道灌が攻めた際に、太田道灌は小山田城に来て攻略している。
しかし、その時の小山田城を誰が守っていたかなどはよくわからない。

小山田緑地

小山田城跡と言われる大泉寺の南に「小山田緑地」と言う東京都が整備した自然公園がある。
園内の谷戸には溜池などの「池」があり、また、芝生広場と称され場所は山の上のくぼ地になっており、かつては「馬場窪」呼ばれていた。
小山田でも馬を飼育していたことが想像できる。見晴らし台からは津久井城なども望め、この緑地も小山田氏などが使っていた遺構の1つであると考えらる。
自然が残るとても良い場所の為、是非1度訪れて欲しい。

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