万見仙千代、万見重元~織田信長の有能な小姓

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有岡城

万見仙千代(まんみせんちよ)は通称で、正式な名は万見重元(まんみしげもと)。
近江出身である神子田長門守の子、または小幡・織田氏の出身とも言われるが生年を含め詳細は不明。

織田信長の小姓となり側近を務めた。
他の大名や家臣との取り次ぎや、奉行として活躍が見られ、戦場では主に検使の役も務めたと言う。

1575年頃から織田信長と羽柴秀吉(豊臣秀吉)の間での書状を持参するなどの行動が見られ、1578年には頻繁に史料に登場している。


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1578年1月4日、自邸を会場に名物の披露会を開催。
1578年5月、西国に向かう羽柴秀吉の元に派遣された。
1578年6月、大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・菅屋長頼ととも神吉城攻めでの検使役。
1578年7月、津田信澄ととも兵庫から明石にかけて砦の構築に携わり、織田信長に報告。
1578年7月、和泉国の淡輪氏から和泉国・紀伊国の情勢報告を受け指示を出している。
1578年7月22日、武蔵の太田道誉宛の織田信長黒状に副状を発給。
1578年8月10日、陸奥国の南部政直(南部宮内少輔)の使者を自邸で接待。
1578年8月15日、安土で相撲会の奉行を務めた。
1578年9月27日、織田信長の堺下向に同行し、津田宗及訪問に従っている。
1578年10月24日、松井友閑とともに法隆寺東寺に段銭の納入について指示した。
1578年10月下旬、荒木村重謀反の噂が出た際に、松井友閑、明智光秀と共に糾問使として有岡城に派遣された。のち、黒田官兵衛は単身で乗り込み、牢に捕えられている。 

有岡城攻めに参陣し、堀秀政と共に甲山に避難していた領民を、戦闘の邪魔になると斬り捨てている。
そして、12月8日の総攻撃では、織田家の鉄砲隊を堀秀政・菅屋長頼とともに指揮した。
しかし、功名にはやったのか? 有岡城石垣を自ら乗り越えようとし、長刀で突かれて討死。

有岡城

この時期、織田信長が最も寵愛した小姓であったが、亡くなった事で、有名な森乱丸(森蘭丸)が重用されることになった。

なお、通称は戦死した時まで童名の「仙千代」で記録されており、年齢的には若かったものと推測される。
1579年1月、安土城内の屋敷が、長谷川秀一に渡された。

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